plan sequence

a)『水の花』(木下雄介)★
ファーストショットで風に揺れるカーテンの鈍重さ(=官能性のなさ)、それに続くバス停のショットの繋ぎを見て、何て映画的感性の感じられない画面と編集だろうと思い、さらに見ていくと体育館での女の子たちのバレーボールが、ヒロインの幼なじみの男の子(物語的にあまり機能してないと思う)の足元に移行するというアイデアは悪くないとは思えど、どうせ全編長回しでやるなら、ここもカットを割らずに横移動か何かで一発勝負してくれれば拍手するんだがなあ、と思いつつ、ヒロインの異父妹が母親に鏡台の前で口紅を塗ってもらう場面で、何で鏡面を写さないんだ!もったいない!と腹立たしく思え、ゲーセンの場面でもっと妹に寄れ!彼女の表情を撮れ!と心の中で叫びつつも、依然、画面は引きっぱなしで二人を捉え、しかもその画面がそれほど魅力的ではないのだなあ、などと思っていたら、姉がその妹に初めて声をかける重要な場面なのにその台詞があんまりで、うーんアカンだろこれ、と舌打ちすると、場面の順序は忘れたが、そういえば、姉が酔った父親に犯されそうになるという場面もひどいのだが、それに続く姉妹が乗る夜行バスのショットによってどうやら姉はそうしたことすべてにうんざりしているらしいということが分かるのだが、それは決して映画的なエモーションを掻き立てるものではなく、ダンドリというか説明なのだけれど、そういえばそういうダンドリ芝居は随所にあり、例えば突堤で姉が妹を突き落とそうと躊躇しつつやはり止めるという動きなども振り付け(それもあまり美しくない)でしかなく、ハイ、そこでカット割ってもっと狭い画にする、などと叫びそうになるのを堪えながら、まだ席を立たずに見ていると、祖父の家だった空家に二人が滞在し、そこで鬼ごっこを始めるところだけなぜかドンデン返しが使われていて、それはもちろん手前で鬼をやっている姉の背後で妹がいろいろな隠れ場所を試しては他のところに移るということを指し示すためであり、それはそれで機能しているのだからオッケーなのだが、続いて妹が押し入れに入り、そこから家族アルバムを取り出すあたりから何て紋切り型なんだろうとゲンナリしつつも、先の展開を予想するとまさに怖れていた通りの画面が続くので、もう少し何かないのか!と怒りそうになったが、さらに姉がピアノを弾き出すと妹が庭で舞踏を踊り出すという、本来なら映画的感動を与えるはずの展開が、何とも間の抜けた構図で撮られているのに呆れ(全く音楽的ではない)、さらにそこに雨が降り始める というシナリオの段階ではよかったはずのアイデアが、何とも粗雑な画面構成で示されるのにもったいないと思い、せめて『お引越し』(相米慎二)とまでは言わないが、ここは「降り始め」をどう撮るのかが勝負じゃないのかとまた不機嫌になり(なので姉の泣き出すのがダンドリにしか見えない)、そういえば水で思い出したが、二人が海辺の町に来る時の列車の窓から視界に広がる海は、トンネルから海へという演出上のアイデアは理解できるものの、そこに広がる「海」は記号としての「海」でしかなく、見るものの前に無気味に迫ってくるような触覚性を持ち得ないのだったが、終盤はずっと雨が降っており、おそらくこの雨が止む時が物語の終わる時だろうくらいの予測はこちらとしてもつくのだが、それはさておき、姉妹が入ったカラオケボックスのミラーボールの光が、映画冒頭の教室での映写機の光と対応するのは明らかで、やってるやってるとは思いこそすれ、だからといってそれに感銘を受けたりするほどこちらはナイーヴでもないのだが、姉が雨の中、母親に電話をかける電話ボックスの手前に絶妙な位置に真っ赤な消火栓が置かれているのを見て、美術部いいところに置くなあとやや感心するも(ちょっとリアルさに欠けるが)、そこでの音響処理を聞くに、例えばデプレシャンだったらこの電話ボックスの外からのロングショットで雨の音を消して、ヒロインたちの声だけを聞かせ、ボックスから出てきた途端に雨の音が聞こえ出すというような野蛮で生意気な演出(『エスター・カーン』でそうしたように)をするかもしれないのに野心がないなあと感じつつ、ここで途中は省略してラストに移ると、当然あの横移動は中盤にあった母親の横移動を反復しており、とすれば妹に対して、その母親と同じような境遇に置かれたことを意味しているのかも知れず、だからといってそれが何かに奉仕しているかとそんなことはなく、水たまりの前にしゃがんでそこに映っている(はずの)自分の顔を見る、しかしそれはやはり横からの引きのショットで捉えているので、当然、水面にに映し出された彼女の水面に映った美しい(であろう)クロースアップは撮られることもなく、ラストのそれほど魅力的ではないバストショットに繋がるのだったが、子供という映画にもっとも親和性の高い被写体を選びつつも、絵コンテ通りに撮ることが優先されたためだろうか、撮影現場で被写体たちの魅力を発見することなく撮られた節があるのは他人事ながら何ともはや残念な気がしてならない。