フィリップ・ガレルとことん語る

a)『処女の寝台』(フィリップ・ガレル)★★★★
『処女の寝台』のあまりの凄さに飛ばされた後、映画美学校でのガレルの講義が始まる。当初の予定では「演出論―映画における演技について―」ということだったのだが、俳優なしで演技について語るのはナンセンス、という至極もっともな理由によって、このテーマは破棄され、代わりに自らの実体験から出てきた三つの忠告をガレルは語った。
1) 「35mmフィルム(できれば白黒)で撮ること」
現在、集団ヒステリーとも言えるデジタル信仰が世界に蔓延している。しかしこれは産業からの要請に過ぎず、罠である。デジタルメディアは一度傷がついてしまえば修復不可能である。一方、35mmフィルムはたとえ古くなっても修復することができる。上映環境を考えてみても、デジタル上映できる映画館はまだまだ少ない。経済的な観点からも、35mmで撮ることには利点がある。多くの製作プロダクションの冷蔵庫には未使用フィルムの端尺が眠っている。それらはぜいぜい二分に満たないものだが、それらを安く沢山集めることができれば充分、長篇映画が撮れる。実際、30歳くらいまでガレルはそのようにして映画を撮ってきた(この方法を彼に教えたのはジャン・ユスターシュである)。こうしたフィルムには使用期限が切れて退色してしまうものもあるが、何も撮らないよりは、退色したフィルムを撮る方がよいではないか。そもそもリュミエール以来、偉大な映画は35mmで撮られているのだ。アンリ・ラングロワはガレルに「白黒映画を撮ることを止めてはいけない」と語った。ちなみにテレビ局が16mmを使わなくなったので、現在では16mmの余りフィルムを見つける方が難しい。*1
2) 「ワンテイクで撮ること」
上述のように端尺フィルムで撮る以上、何テイクも撮るわけにはいかない。そこで撮影の前に綿密なプランを立てておくことが必要になってくる。特に重要なのは俳優のリハーサルである。ロベール・ブレッソンがかつて国立映画学校で講義をした時の記録によれば、彼は一人の素人俳優に対して三ヶ月もの役づくりのためのリハーサルをしたそうだ。リハーサルはどこでもできる。その際にキャメラは必要ない。紙と鉛筆で充分である。それに時間をかけることで撮影を円滑に進めることができるし、時間と金の節約になる。またブレッソンの例を引けば、彼は職業俳優を使って二本の映画を撮った後、それらの俳優が「下手」だと気づいた。なぜなら彼らは自分自身を演じているに過ぎず、役柄を演じてはいなかったからだ。だからまず身近な人々を使って映画を撮ってみるべきだ。なお『夜風の匂い』でカトリーヌ・ドヌーヴはワンテイク主義を受け入れてくれ、見事に彼女はそれに答えた。
3) 「早く撮ること」
これも経済的な面からそうすべきである。ガレルが師と仰ぐジャン=リュック・ゴダールのことを考えてみよう。ゴダールフィルモグラフィーを眺めてみると、彼がデビューから一貫して同じような規模の予算で映画を撮ってきたことが分かる。一方、大抵の監督はキャリアを積むにしたがって、製作費が直線的に増大していくが、これは創作的自由という観点からすると危険である。彼らは大きな予算の中で身動きがとれなくなってしまう。したがっていつでも低予算で撮れるような状態に身を置くことは、作家の健康を保証してくれる。早く撮るためには、上述のリハーサルが欠かせないばかりか、脚本段階でもあまりお金を掛けずに撮影可能な舞台設定をすることが必要である。日常的な風景の中で身近な人たちの顔を撮ろう。なお『調子の狂った子供たち』を撮った時、35mmキャメラを木曜日に借りて、週末に撮影したが、土日は機材屋が休日なので、金曜日の分の支払いだけで済んだ。たとえワンテイク目にささいな技術的問題があっても気にすることはない。それはそのまま使える。問題なのはそうした技術的な欠陥よりも芸術的な欠陥なのだ。
以上、述べた提言はひょっとすると気狂いじみたものに聞こえるかも知れない。しかしそれが正しいことを自分は確信している、あなた方の中からそのようにして映画を撮る人が出てくるなら自分としては幸いである、幸運を祈る、とガレルは締めくくった。経済的な側面と美学的な側面が緊密に結びついた唯物論者らしい美しい講義だった。

*1:ただフランスと日本では製作環境が違うので、ガレルが語ったこの方法をそのまま実践することは困難だと思われる。第一、機材屋は素人に35mmキャメラを貸してはくれない。ただ彼の精神は受け継ぐべきである。