桃祭のまとめ

私は映画批評で時折見かける「許す」という言葉が嫌いだ。これを使い始めた蓮實重彦はともかくとして、それより若い世代の映画批評家がこの言葉を使うのを見ると、悪い冗談としか思えないし、鈍感さを伴った傲慢さしか感じない(試みにこのブログで「許す」という言葉を検索してみたら、三件ほどヒットしたが、いずれも作品や映画作家に対して使われたものではなかったのでひと安心した)。逆に私が好きなのは「許せない」という言葉である。「許す」という言葉が、映画作家を見下す虚構の位置に身を置く映画批評家の傲慢さしか感じさせないのに対し(だったら自分で撮ってみればいいのだ!)、「許せない」という言葉はどこか地に足がついている感じがするし、パンクだ。
前置きはさておき、「桃祭」の感想を。昨日、引用させてもらった筒井武文さんの文章がこれら作品群の肯定的な側面を見事にすくいあげていたので、私は悪玉に徹することにする。これを書くことでマドモアゼルたち(あ、一人はマダムか)に嫌われたりしないことを願いつつ、当人たちから批評のリクエストがあったのでそれに答える形で(まあこれも裏返しの愛だと思っていただければ幸い)。個人的には映画とそうでないものとの差異についていろいろと考えさせられた。
今回、上映された5作品中、4作品が何らかの形で「家族」をテーマにしていたのは「症候」として興味深かった。彼女たちの表現衝動の根幹にこうしたものがあるということなのだろうか(あるいはそれは私の深読みかもしれない)。似通ったテーマの作品が並んでしまうと、題材の処理の仕方に個々の実力の差がはっきりでてしまうのは当然の理で、その点、このテーマを扱わなかった『座って!座って!』にとっては今回のラインナップは有利に作用したかもしれない。
『daughters』は、この作家が以前撮った『犬を撃つ』(カンヌのシネフォンダシオンに出品)の批評的リメイクとも言うべきもので、前作があの手この手を使って何かを「見せる」という演出に徹していたのに対し、ほぼ同じ題材を今度は不在の対象について登場人物たちが「語る」(あるいは「注釈する」)というデュラス的な手法がとられている(ただしデュラスの映画ほど映像とテクストの間のズレはない)。空間の把握の仕方が見事で、固定の長回しを主体とする画面(この作品のみスタンダード)も、抑制のきいた役者の演技と相俟って全くダレさせない。ただ欲を言えば、女優をもう少し魅力的に撮ればもっとよかった。監督の視線が隅々まで浸透しているのを感じさせたのは唯一この作品のみ。
『明日のかえり路』は、他の作品についてもおそらく同じことが言えるのだが、演劇畑の役者を映画で使う場合の戦略が欠けていることが大きな問題だと思う。つまりいかに役者から映画にとって必要なものだけ残してそれ以外を削るかという点において失敗している。もちろんこれは演出の問題ではあるのだが、撮影時にうまく行かなかったところをいかに編集でカバーするかという点にあまり注意が払われていないように見受けられた。単純にカット頭とカット尻を削ればもっと良くなったのにというショットがいくつもあったように思う。撮影も確かに「いい画」をとってはいるのだが、あくまでそれは「いい画」に過ぎず、演出と有機的な関係を取結んではいない(悪く言えば「官僚的」、これは編集についても言える)。また演出的なことを言うと、若い男が携帯を持っていて、しかも老人とさほど離れていない距離で通話をしているので、彼が老人に荷物を見ていてもらうという物語上のポイントであるべきはずのところが効いてこない(無人駅で他に人はいないのだから)。
『granite』にも、『明日のかえり路』と同じ問題が含まれている。演技に関してもそうなのだが、一番大きな問題は、なぜ叔父は主人公に突然、秘密を話しはじめる気になったのか、という物語上、最も重要なポイントをいかに処理するかという視点がごっそり抜け落ちている点である。なので後半にどんな見せ場があっても(あるいはそれが見せ場として見せられれば見せられるほど)見る側はシラケてしまう。また映画において生きている人間をいかに燃やすかという点においても、CGで安易に処理すべきではなく、『スポンティニアス・コンバッション/人体自然発火』(トビー・フーパー)とまではいかないまでも、『夜は千の目をもつ』(高橋洋)のような工夫はあったのではないか。
『たんぽぽ』は、役者の顔の選び方が映画的ではないような気がした。またこれは他の全ての作品についていえるのだが女優の顔を撮ることに対して繊細さがあまりにも欠けている(これは監督が女性だからなのだろうか?)。*1ただし倒れていた女が目を開く時のアップは例外的に良かった。また母親役の女優も素晴らしい。ただ映画というよりは悪い意味で映像詩の側に傾いていたと思う。
『座って!座って!』については、自分もスタッフとして深く関わってしまったので、あまり語るべきことはない。この作品が面白かろうが詰らなかろうが、その責任の一端は自分にある。ただこのコメディの共犯者の一人としては、客席から時折笑い声が起こったのには肩の荷が降りた思いである。ただやはりこの作品についても映画における演技というものについて(編集中から)いろいろと考えさせられた。また二人の男が二度立ち上がるのだが、ほぼ同じことの繰り返しであるのは問題。二度目にはもう一工夫あったほうが面白かったとは思う。
とまあ、いろいろと文句を並べてきたが、感心させられたのは、どの作品もロケ場所は立派だったことである。
また「映画とそうでないものとの差異」ということを冒頭にちらっと触れたが、しっかりと「映画」にベクトルが向っていたのは『daughters』のみで、『座って!座って!』はキワキワのところでかろうじて「映画」につなぎ止められているという感じ。他の作家に関しては「映画」というものについての概念がたぶん私と違うのだろう。なおやはり「16:9の法則」*2が今回のラインナップに関しても適用されたと思う。
とはいえ、彼女らデビュッタントの前途に幸あらんことを!
(追伸)今回、第一試写室と第二試写室の両方で同時に上映が行われたのだが、なんと共に立ち見がでた。彼女たちの上映家としての能力の高さには敬服する。それと今回撮らなかった他の桃娘たちによる第二弾を希望(あ、今度はみんな「4:3」で撮ろうね)。

*1:なおこの点に関しては現在公開中の『蒼き狼』(澤井信一郎)で女優のアップがいかに繊細に撮られているかを見られたし。

*2:さしたる理由もなく「16:9」で撮られた自主映画は総じてつまらない、という私の仮説。