a)『涙の船唄』(キング・ヴィダー)◎
b)『群衆』(キング・ヴィダー)◎
c)『エイリアンズ』(渡辺裕子)×
d)『A Bao A Qu』(加藤直輝)×

「藝大映画週間」Aプログラムより

『エイリアンズ』は、性同一性障害、出会い系サイト、殺人鬼、謎の蛇といった要素があまりにもバラバラである。脚本をもっと練る必要があったと思う。

『A Bao A Qu』は「賛否両論」ある作品(興味深いことにこの言葉を登場人物の「小説家」が自作について口にしている)だとは思うが、私は「否」の立場を取らせてもらう。批判の要点は、前作『リンゴの皮がむけるまで』について述べたこととほぼ同じなのでそちらを参照してもらいたい(id:hj3s-kzu:20060728)。ここに見られるのは「現代映画の最前線」ではなく、そのコピーに過ぎない。ただ前作に見られた技術的な難点(一例をあげれば音響処理の粗雑さ)は改善され、演出力にはさらに磨きがかかっている。しかしそれが何に奉仕しているのかという一点において、私はこの作家を全く信用できない。
確かに世界は暴力に満ちている。しかしそれをどのように描くかによって、その作家の世界観が問われることになろう。「少年犯罪」(つい先日もうんざりするような事件が起こって、ワイドショーを賑わせていることは周知の通りだ)や「通り魔」という「アクチュアル」な素材を描くにあたって、この作家は視点人物として「小説家」を物語に登場させている。しかしこの「小説家」たるや、その事件を「搾取」し、その上、自分が「正義」の立場に身を置いているかのような、「通り魔」以上の「クソ野郎」なのだ(ワイドショーの連中がそうであるように)。彼はかつて起きた通り魔殺人事件についての小説で一躍、有名作家になったという設定で、その「通り魔」の弟を主人公にした続編を書く準備をしている。そんな「クソ野郎」に当の少年が殺意を抱くのは当然だろう。だとしたらなぜ少年は彼を輪切りにして殺さないのか。
作品の後半に「小説家」がインタビューに答えて御高説を開陳する場面がある。私にはここで彼が作者に代わって弁明しているように思えてならなかった(邪推だろうか?)。もしそうだとするなら、この作者が「小説家」を殺すことはありえない。意識的、無意識的に拘わらず、それは作者の「自己否定」につながるからだ。こうして誰にも理解してもらえない、傷つきやすい「ボクちゃん」の自我は温存されていく(それは恋人との場面に典型的に現れている)。
結局、この作家の関心は「暴力」について「なぜ」と問いを発することではなく、それを「いかに」描くことにあるのだろう(もちろん映画と「暴力」とは切っても切れない関係にある。グリフィスの言うように、つまるところ「映画は女と銃」だ)。そして、その「いかに」は観客に最大限にショックを与えることのみに奉仕する。しかし、いちいち具体的な固有名を挙げることはやめるが、この映画の参照先の映画作家たちの誰一人として、彼のような目的のためにベビーカーの上に大型テレビを落下させるようなことはしないだろう(念の入ったことにドンデン返しのショットまで挿入される)。あるいは被害者の恋人が雨の中で独白をする見事なキャメラワークのロングテイク。だが「表象不可能なもの」に触れた時、果して人はあんなに流暢な台詞回しをするだろうか(とはいえ、たどたどしく喋ればいいというものでもない)。ついでにいうと、あの「小説家」はその彼女の姿をデジカメで撮ってしまうような奴なのだ。
この映画は一見、世界に開かれているようでいて、実は閉じている。この作品が、こうした「シリアス」風の映画(そのような外見を装っているだけに一層タチが悪く、不誠実だ)ではなく、単なるスプラッター映画だったらどんなにすがすがしかっただろう。