a)『ばらの騎士』(ロベルト・ヴィーネ)×
b)『兎のダンス』(池田千尋)×
c)『心』(月川翔)×

「藝大映画週間」Cプログラムより

『兎のダンス』は「母の新しい恋人」(あらすじを読んで初めてわかった)と少女との関係性を前半できちんと描いていないので、クライマックスの川岸の場面が空転している。ゆえに全体的に雰囲気だけの映画に終わっている。あと細かいことだが、パンやズームのタイミングが若干早すぎ。もう少し場面のエモーションに沿って動かした方がいいと思う。

『心』は刑事ドラマで見たようなクリシェのオンパレードで、それでも他の作品に比べれば、物語をきちんと語ろうという意志のようなものが垣間見えるので、「映画」としては見るに耐えないが、「深夜ドラマ」としてなら我慢してみようという気に途中までさせるが、クライマックスの直後の場面で、役所広司が衝撃の(というよりは「笑撃の」)真相を告げるにあたって、これ以上、こんな代物に真剣につき合っていられないと思った(ホント椅子からズリ落ちそうになった)。せめてそこで終わってくれたならまだしも、その後のエピローグが長過ぎる(はっきり言って不要)。この作家に映画的な教養がないことは画面連鎖ですぐに分かるが、その無教養ゆえに彼は「映画」と「テレビドラマ」の区別がついておらず、また自分のやっていることがクリシェであることに気づいていない(もっとも「テレビドラマ」に毛の生えたような「映画」もどきが巷に氾濫している以上、一概に彼を責めることはできない)。

昨日今日と続けて4本を見て感じたのだが、どの作品も女優の選び方は悪くないのだが、男優、特に主役格の若い男優の選び方が見事に間違っている。どの役者もイマドキのいわゆる「イケメン」タイプで、おそらく街で歩いていれば人目を惹く人たちなのだろうが、残念ながら「映画の顔」ではない。これは映画にとってかなり致命的だと思われる。どういう顔が映画的なのか。これは各自がたくさん映画を見ることによってしか会得できない感覚だし(こればかりは映画館でしか学べない)、そこに作家の映画的センスというものが問われてくるだろう(ちなみに「顔」の他に大事なのは「声」と「立ち姿」である)。*1

*1:もちろん「動きのキレ」も重要。つまり優先順位としてはいわゆる「演技力」(内面的な)は第一ではない(あるに越したことはないが、なければ「演出力」でカバーすべき)。この辺を勘違いして、ヘタに舞台の役者を連れてきて悲惨な目にあう、というのは自主映画にありがちなパターンなので要注意。