a)『裁かるるジャンヌ』(カール・ドライヤー)◎
b)『吸血鬼』(カール・ドライヤー)◎
c)『新訳:今昔物語』(渡辺裕子/月川翔/大門未希生/加藤直輝)×
結局、今回見ることのできた日本初の国立映画学校製作による作品群は全く評価できないものばかりだったのだが、かといって例えば映画美学校*1が製作している映画群がそれよりも良いかというと全くそんなことはない(少なくともここ数年の低調ぶりは凄まじく、すでに述べたように(id:hj3s-kzu:20060909)去年はほぼ全滅という惨状だった。とはいえ、これらが未だに一般公開されていないというのは解せない。作品の質に拘わらず、製作されたものは公開すべきである)。
以前から感じていて、それが今日、確信に到ったのだけれど、今の若い世代は黒沢清青山真治高橋洋という固有名からなる三角形のパラダイムの内部でしかモノを発想できなくなっているのではないだろうか?これは特に比較的優秀であると思われる男性作家に多いように思われる。一方、女性作家の方はこの三角形の外部に位置している場合が多いのだが(単にあまり映画を見ていないため)、彼女らが頼みとしているものは所詮「感性」とやらでしかなく、一、二本はそれで周りを「騙せる」かもしれないが(というのも映画界というのは圧倒的に男社会だから)、多くの場合、長続きはしないだろう(これは性差別的偏見ではないので悪しからず)。両者に欠けているのは共に「映画史」である。もちろんここでいう「映画史」とは単なる知識ではなく、この芸術ジャンルの百年以上にもわたる歴史的重みへの敬意のことである。先の三角形の内側にいる人間は、真面目な「シネフィル」(といってもたかだがここ数年ほどのトレンドをフォローしているに過ぎないのだが)が多いと思われるので、この三角形の頂点をなす映画作家の作品や彼らが言及する作家たちの作品を熱心に研究するのだが、それによってますますその三角形に閉じこめられてしまう。ただこれは比較的マシな方で、この三角形すら意識していない(ということはロクに映画を見ていない)人が映画を撮るとどうなるか?良くて「できの良い深夜ドラマ」、悪くて「できの悪い深夜ドラマ」がせいぜいである。
ではこの悪循環から抜け出る道はないのか?今のところ「ない」(絶望的な回答で申し訳ないが)。というのも、これは撮り手だけの問題ではなく、映画批評の問題でもあるからだ(自戒を込めて言うのだが)。ただ自分がこの三角形=症候に閉じこめられていることを自覚している人間にはまだ希望があるかもしれない。その処方箋は死ぬほど「映画史」にまみれることでしかないだろう(とはいえ、それらを参照しろと言っているわけではない)。
(追記)結局、一番の問題は「映画史」の欠如よりも「批評的な知性」の欠如かもしれない、ということにこの一文を書いた後、思い当たった。

*1:たまたま私がこの学校の作品を比較的フォローしているから挙げているだけで、多分日芸やらNCWやら大阪芸大やら日本映画学校にしても事情はそんなに変わらないだろう。