蓮實重彦とことん日本映画を語る vol.18

hj3s-kzu2007-08-18

本日のお題は「日本の幽霊—魑魅魍魎から遠く離れて—」。つまり前回(id:hj3s-kzu:20070331)の続きである。まず蓮實重彦氏による序言を以下に引用する。

Jホラーと呼ばれる一連の作品—その一部は、監督自身によってハリウッドでのリメイクが行われている—はいかなる点で新しいのか、あるいは新しくないのか。一部に、CGによる魑魅魍魎の跋扈する作品がないでもないが、優れた作品の多くは、存在の可視、不可視のはざまに漂う「気配」の表象をつきつめているという監督たちの姿勢において、「日本の幽霊」の伝統の流れ—溝口の『雨月物語』、あるいは一連の『四谷怪談』における「手」—の中に位置づけられる。「化猫」モノ、「狸御殿」モノなどの特質—いずれも人間がそれを演じている—を再見したうえで、最近のホラーの特質を、その伝統との関係において見きわめてみたい。

以下は私なりの要約である。

まず江戸川乱歩原作の『氷柱の美女』(久松静児、1950)から、岡譲二演じる明智小五郎が謎の怪人を縁日のお化け屋敷で追い詰めるが、怪人は消えうせて水島道太郎が倒れているというシーン。これを見ても分かるように映画の中で「怖い」とされている怪物は私たちが見ても少しも怖くない。むしろそうしたものはフレーム内に表象された途端、滑稽な存在へと変化してしまったりもする。これら怪物はあくまで人間によって演じられたものだ、という点をまず押さえておいて次の作品を見てみよう(なお久松静児はロングショットになかなかの冴えをみせる監督であり、食わず嫌いせずに見てもらいたいとのこと)。田中徳三のデビュー作『化け猫御用だ』(1956)から、化猫に扮した腰元と彼女を追ってその姿を障子のかげから目撃する武士のシーンでは、怖い怖くないは別として、実に見事な古典的な画面設計がなされている。前回の講義では「狐憑き」の主題が語られた。人を化かす動物として一緒に語られることの多い狐と狸だが、こと日本映画にあっては、狐が登場する場合、しばしば不吉な感じを作品に導入するのに対し、狸の場合はそれと対照的にユーモラスな印象を与える。例えば『七変化狸御殿』(大曽根辰夫、1954)では、どう見ても人間としか思えない外見の美空ひばり宮城千賀子(男装の麗人!)が自分たちを「狸」だと名指し、おまけにその後のシーンでは何故かラメ入りのタイツ姿の美空ひばりフランキー堺のドラムの伴奏でジャズを突然唄いはじめる。なお1950年代には当たり前のように享受されていたこの種のアナーキズムに対する許容性を今日の観客は失いかけているが、これに対抗しうる数少ない現代の映画作家は鈴木清順をおいて他にあるまい。清順の『オペレッタ狸御殿』(2003)では、チャン・ツィイー演じる狸のお姫様がオダギリ・ジョーとCGの書き割りの前で「恋する炭酸水」をデュエットする涙なくしては見られない素晴らしいシーンがある。

以上の予備的考察の次に「Jホラー」と呼ばれる現代日本の一連の作品に目を転じてみたい。まずは『仄暗い水の底から』(中田秀夫、2002)から、エレベーターに乗った黒木瞳が不意にそこにいないはずの子供の手を握ってしまうシーン。次に『呪怨』(清水祟、2002)から、シャンプーをしている奥菜恵の後頭部にフレーム外から何者かの手がのびるシーン、続いて彼女がレストランで異変を感じてテーブルの下を覗くと、そこにうずくまった白塗りの子供の幽霊と目が合ってしまうシーン。二本に共通する主題は「手」であり「子供」である。これらは他の「Jホラー」にも広く見られるが、特に「手」という主題が前回見たように「日本の幽霊」の伝統の流れの中にあることは言うまでもない。「子供」という主題に関連して注目してみたいのが中田秀夫の作品における「母性」という主題である。例えば、『仄暗い水の底から』のスペクタキュラーなクライマックスで、黒木瞳はエレベーターの中で溺死した子供の幽霊を抱き締めることで、自らを犠牲にしてそれを成仏させるとともにわが子の命を救うし、『リング2』(2005)では、トラックにはねられた母親の屍体の前でうずくまる少年を、同じ異能者同士である中谷美紀が抱き締める(なお少年と母親が警察署から逃走するショットでかなり初歩的なつなぎミスが見受けられる)。デビュー作の『女優霊』(1995)から最新作の『怪談』(2007)に到るまで、この「母性」という主題は中田秀夫の作品系列を貫いている。この点において彼のホラー映画は「母もの」の一変種とみなすことができる。そこではヒロインが他人の子供(または幽霊)を抱き締めることによって、子供を救うという構造が一貫している。なお『仄暗い水の底から』のラストでは、高校生になった黒木瞳の娘が事件から何年も後にその場所を訪れ、黒木の幽霊と再会するというシーンがあるが、ここには『雨月物語』(溝口健二)のラストの森雅之田中絹代の幽霊と再会するというシーンの残響を聞くことができる。こうした『雨月物語』のヴァリアントは意識的、無意識的であるを問わず、近年の日本映画に多く見ることができる(例えば『ALWAYS 三丁目の夕日』(山崎貴、2005)など)。

ところで現代の日本映画の一傾向として、他界からの「気配」に対する感性が挙げられる。まず『幻の光』(是枝裕和、1995)から、田舎道のバス停にひとり降り立った黒装束の江角マキコが遠くにやはり黒装束の一団を見つけ、誘われるようにその後についていってしまうシーン。ここでやや審美的な長いショットをいくつも連ねて示された「気配」を、青山真治はたった一つの簡潔なショットで表現してみせる。デビュー作の『Helpless』(1996)のラスト、ふと足を止め、横を向いた浅野忠信の視線の先には死んだはずの片腕のないヤクザ(光石研)の背広の袖が車窓からひらひらと揺れているのが見える。このデビュー作の時から青山真治の画面設計は完璧で、先に『リング2』で指摘したようなつなぎミスなどは見られない。このように見事にショットをつなぐことのできる彼が最新作の『サッド ヴァケイション』では、それをあえて壊すようなことをしている。また今みた車窓から揺れる背広の袖のショットは最新作においても変形されて再び現れることにも注目したい。次に黒沢清が「気配」をどう表現しているかを見てみよう。『降霊』(1999)ではガランとした大学構内で風吹ジュンと草なぎ剛が会話を交わし、彼らが窓辺に立つとその背後では木々は風に大きく揺れている。あるいは『ドッペルゲンガー』(2003)の冒頭、ついさっきまでそこにいたはずの弟の死を警察の電話で知らされた永作博美の背後の奥の部屋のカーテンが無気味に揺れている(ちなみにこの直前の弟とのやりとりの場面も『雨月物語』のヴァリアントと言えよう)。このように黒沢清の作品においては「気配」は大気の流れと深く関わっている。

では上に挙げた三人の現代日本映画作家は、「存在と非在のはざまで」揺れ動くものをどのように表現しているのかを最後に見ておきたい。目の前で人が消失するということを近年の黒沢清は繰り返し描いているが、おそらく『大いなる幻影』(1998)がはっきりとそれを行ったその最初の作品だと思われる。ここでは自室の窓辺に佇む武田真治は文字通り風景の中に融解してしまう。是枝の『ワンダフルライフ』(1998)では、試写室の灯が点いた時、そこにいたはずのARATAの席に彼の姿が見えなくなっているというかなり説明的な仕方で、存在から非在への移行が表現されている。逆に青山の『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』のクライマックスでは、轟音ギターを炸裂させる浅野忠信の姿を死んだはずの中原昌也が巨大アンプの陰から笑顔で見ている。ここでの中原昌也の登場のさせ方はまるで『わが谷は緑なりき』(ジョン・フォード、1941)のラストを思わせる。その意味においてこの映画は青山作品の中で最もフォード的なフィルムだと言ってよい。そして再び黒沢清の最新作『叫』を見てみよう。この映画では葉月里緒菜の幽霊が空を飛んだりして楽しいのだが、今回はそこではなく、無人駅の改札で役所広司が自分の旅行バックをいきなり小西真奈美に手渡し、一言「行け」と彼女を立ち去らせるシーンを見る。ここで語られている意味は明白である。後のシーンで分かるように小西はすでに死んでおり、ここで役所が命じる「行け」とは、先にあの世に行って待っていてくれ、自分もすぐ後を追うから、ということである。つまりここでの改札は三途の川の現代版のような機能を果しているといえる。このシーンの終わりで振り向く彼女のアップは素晴らしい。

ところで、そこに見えているはずのものが他人には見えていない(あるいはその逆)という「Jホラー」の主題は、実は映画自体が抱えている原理的な問題である。つまり画面というものがそれを前にした万人に向って開かれているにも拘わらず、そこに映っているものを全員がちゃんと見ているとは限らない。

以上、「Jホラー」に見られるいくつかの主題を見てきたが、最後につい先日、この世から姿を消してしまった台湾の、というよりアジアを代表する映画作家であったエドワード・ヤンを追悼することで今回の講義を終わりにする。彼が主人公の少年少女の父親役で出演している『冬冬の夏休み』(ホウ・シャオシェン、1985)のラストである。この頃はまだこの二人の映画作家がお互いの作品に出演しあったりするということがあったのだ。このシーンで車窓から顔を覗かせるエドワード・ヤンの人懐っこい笑顔をもう私たちは目にすることができない。