映画美学校ドキュメンタリー・コース2006年度高等科修了作品発表会

映画美学校ドキュメンタリー・コース2006年度高等科修了作品より。
『ニッポンの、みせものやさん』△
『きみはいま』×
『彩風白葉』×
『「湾岸沿い」―流通基地としての東京―』×
『理想の幻日』△
『TX【パイロット版】』×
『日曜日、しかしそれは日曜日ではない』、『生涯AV男優 辻丸耕平』、『島影』についてはすでに書いたのでそちらを参照のこと(id:hj3s-kzu:20070901、id:hj3s-kzu:20070909)。ただ『島影』は前回の再編集版で、ラストのシーンの順番が入れ代わったことにより、自分語りという色彩は薄まり、閉塞感をより広い問題として捉え直している(それが作品の質の向上に繋がったかはよくわからない)。『ニッポンの、みせものやさん』のアヴァンタイトルの8ミリ映像(?)には、見せ物小屋の猥雑感がよく出ているが、DVで撮られた見せ物の映像にはそれはない。起伏のない構成にも難あり。もっと被写体に迫って魅力的な顔を撮って欲しかった。「ですます」調のナレーションもなしにして、撮ったものだけでどこまで語れるか勝負すべきでは。『きみはいま』のクリシェの連続には呆れた。リリアン・ギッシュの物真似をしている場合ではない。スカスカの被写体をスカスカに撮ってスカスカに編集されたものを見せられても困る。ここには作者の思考の欠如しか映っていない。『彩風白葉』は正直、吐き気がした。といっても別に醜いものが映っているわけではなく、逆に美しい女性シンガーが映っていたりもするのだが(なのでさらにタチが悪い)、あまりにも無内容で奥行きを欠いた映像のパッチワークが表現しているメッセージはただ一つ、「私を見て」ということだけだ。これが「クリエイター」という人種なのだろうか。おぞましい。DVとパソコンの普及によって誰もがアーティストになれる時代が到来したと作者は本気で信じているようだが、それは何かの間違いである。『「湾岸沿い」―流通基地としての東京―』は中心となる一本の糸が欠けているために単なる映像の羅列に終わっている。またわざわざ教わるまでもないことを親切にナレーションで説明してくれる作者には観客に対する想像力が欠けている。もし続編を作るならアプローチをもっと考えて欲しい。『理想の幻日』は被写体に仮託した作者の自分語りかと中盤まで思わされるが(もっとも被写体のおかげでそれでも見ていられるのだが)、後半、作者がおずおずと被写体に心を開いていくあたりから急転回し、結果として他者との遭遇についてのドキュメンタリーへと変貌を遂げる。そのあたりが私には面白かった。ただつい先日物故したばかりの映画作家の生前の映像の使われ方には大いに疑問を感じる(ただこのシーンも後半の転回を準備しているだけに微妙なところではあるが)。『TX』はタイトルに偽りあり。列車と映画というのは相性がいいはずなのだが、その点、作者はあまり関心がないようだ。むしろワンシーンだけ登場する作者の母親の方が被写体としては魅力的だった。この作家が以前撮った『写真をよろしく』も被写体である彼の祖母が作品の魅力の大きな源泉となっていたことから考えると、資質としては社会的なテーマよりも私的なもののほうが向いているのかも知れないが、保証の限りではない。なおドキュメンタリー科発足当初からのある種の伝統である(?)おちゃらけた編集も本当につまらないので止めたほうがいい(そういえば『写真をよろしく』も編集は酷かった)。
朝まで呑んでいて一時間しか寝ていなかったので、さすがに今日は疲労した。こういうふうに脳のふやけた状態で『デス・プルーフ』を見るのも気持ちいいかもと考え、心が揺れるが、おとなしく帰宅。