a)『一万年、後....。』(沖島勲)◎
この作品の奇天烈さはすでにタイトルに表れている。『一万年後』でも『一万年後。』でも『一万年後…』でもなく、『一万年、後....。』なのだ。そこでは「一万年」と「後」の間が読点で区切られ、しかも最後にピリオドが正確に四つ続いた後にダメ押しのように句点が打たれる(そうこの四つ続いた点はピリオドなのだ)。にもかかわらず多くの人はこれを「…」の点が四つ続いたものと誤解している(不思議なことに、公式サイトですら「….」という折衷的な表記の仕方をしている)。それはおそらくこの作品を見た後に誰しもが感じる突き放されたような取留めもない感じに由来するのだろう(それは各自が実際に体験してもらいたい)。つまりこのフロイト的な書き間違いには、書き手の「絶句感」が込められているのだ。しかし沖島勲は、多くの観客が体験するかもしれないそうした「絶句感」を自らの作品のタイトルのうちに予告してしまうような配慮を持った小心者ではない。
「一万年」の次に「、」を挿入することによって「後」という文字を屹立させ、しかもそのすぐ後ろにピリオドを四つ打ち、しかも「。」で締めくくること。ここにあるのは、あくまでも何かを終わらせようとする凶暴な意志である。では彼が終わらせようとする「何か」とは一体何なのだろう。それは阿藤快の台詞にあるような「ただの電波の破片になって、ゴミ溜めのように」なってしまった廃墟としての映画である。このことがわかれば、このナンセンスSFコメディの仮面の下に、極めて真摯で倫理的なこの映画の真の顔を見ることができるだろう。すなわちタイトル画面の文字の慎重な配列の仕方が示唆しているように、この物語で語られているのは、決して私たちとは無関係な「一万年、後」の世界ではなく、「一年、後」の世界かもしれないのだ。この映画作家の危機感がどれだけのものかあなたにはお分かりだろうか。彼がこの映画で試みたこと、それは果てしなく続く「後」の時間の中で、「廃墟」の上で「新しい天使」が再び翼を広げることができるために、「ゴミ溜め」に止めの一撃をくらわすことである。生半可な態度で「映画」に近づく者たちに彼が送る挨拶は「やめとけ」の一語だ。必見。
『一万年、後....。』公式サイト http://1mannengo.hibarimusic.com/