ヤマガタ2007 その1

a)『アレンテージョ、めぐりあい』(ピエール=マリー・グレ)△
b)『鳳鳴―中国の記憶』(ワン・ビン)△
c)『とべない沈黙』(黒木和雄)△
d)『映画の都、ふたたび』(飯塚俊男)△
『アレンテージョ、めぐりあい』は最初のショットを見た瞬間にいやな予感がしたのだが、見事に適中。個々のショットはよく撮られているが、あれこれ題材を詰め込み過ぎて、結局、構成が散漫になり、何が言いたいのか意味不明なまま終わってしまっている。インサートされるスチール写真の使い方も安易。これを見るよりは作中、何度も抜粋がインサートされる『新しい人生』(パウロ・ローシャ)の方が見たかった(傑作に違いない)。ローシャの作品のショットの映画としての充実度に比べると、この作品のショットは審美的すぎる。
鳳鳴―中国の記憶』は賛否両論あると思うが、私は否とさせてもらう。皆、『ナンバー・ゼロ』(ユスターシュ)のことをすっかり忘れてしまったのだろうか。この作品はDVを使ったその応用編に過ぎない。しかもユスターシュの老婆にはあった被写体としての魅力が、この作品の被写体には感じられない。窓から室内を照らす陽光が刻々と翳っていき、ついにはほとんど室内が真っ暗になった瞬間、撮り手が老婆に電灯をつけるように促し、それによって室内の光景が一瞬にして視界により鮮明に再浮上するショットには「映画」が息づいているが、トイレに立った後、再び同じ地点から澱みなく昔語りを続ける元記者の老婆を見ていると、その言葉が今この瞬間に生々しく生成しつつあるというよりは、すでに書かれたテクストを反復しているに過ぎないのではないかという疑念が芽生え、終盤に、すでに同じ題材で一冊の書物を書いたことがあるという言葉が彼女自身の口から洩れるに到って、だとしたらこれをドキュメンタリーとして撮る意味が果してあったのだろうか、という根本的な問いを発せざるを得なかった。この作品は、冒頭の歩く彼女を背後から追った長い移動ショットを除くと、基本的にソファに座る彼女の正面からのフルショット、その同軸上のアップ、彼女の位置からの切り返しで窓のショット(これは彼女がキャメラ前から不在になった時にインサートされる)、その他にこの部屋を廊下から捉えたショット、トイレから出てくる彼女のフルショット、ラストに机に向って執筆する彼女を背後から捉えたフルショットといったごく僅かなセットアップから構成されているが、主に私たちが目にするのは、彼女の正面からのフルショットとクロースアップである(ちなみにズームではない)。私が大いに疑問を感じたのは、この二つのサイズのショットの配分である。一方から他方への移行には何の論理的必然性も感じられず(もちろんここで言う「論理」とは映画の画面連鎖における論理である)、単に恣意的にカットが割れているように思われた。おそらく見た目ではリアルタイムで語っているように見える彼女の語りは実は数日に分けて撮影された素材を巧妙に編集したものではなかろうか。つまりアップの画面が入ることで時間を操作しているのである。もちろんこういったドキュメンタリーにおけるフィクション性はそれ自体において非難されるべきものではない。しかし先にあげた刻々とうつろいゆく光を長回しで捉えたショットを含むこの作品においては、それが一種の詐術として機能しているように思えてならない。ついでに言うと、もしこの方法論でこの作品を撮るなら、前半に頻出するフェードイン/フェードアウトを使った省略みたいな中途半端な真似は止めた方がいいと思う。
で、初っ端から長いものを二本連続で見たせいで、リティー・パニュの新作は見る気になれず、最終日に回して、『とべない沈黙』へ。コンペ作品が上映されるメイン会場のすぐ二階下にあるこのパイプ椅子の小ホールは、フィクション作品を連日上映してくれていたおかげで、会期中、ドキュメンタリー漬けで疲弊した私の心の安らぎの場になってくれたのだった。
形式上の野心ばかりが目につく最初の二本に比べて、適確なカット割りがなされた『映画の都、ふたたび』はかなり楽しめた。行政側と映画祭実行委員会との間の齟齬をかなり際どいところまで見せてくれたこの作品にはハラハラさせられたが、ラストの方がやや予定調和的なのが惜しまれる。こうした内幕物をやるなら徹底的にやってもらいたいが、映画祭会期中に他の関係者たちを前に上映するという条件下ではなかなか難しいかもしれない。
上映後、一杯引っ掛けてから、香味庵へ。