ヤマガタ2007 その4

a)『旅 ― ポトシへ』(ロン・ハヴィリオ)△
b)『垂乳女』(河瀬直美)×
c)『人民への愛ゆえに』(エイアル・シヴァン/オードリー・モーリオン)×
『旅 ― ポトシへ』はオシャレなセンチメンタル・ジャーニーとでもいったもの。約三十年前に新婚旅行で出かけた南米の僻地に、写真家である妻とスタッフ代わりの娘の美人三姉妹を伴い、昔、撮った写真を手にその場所を再訪する、という筋立てだが、ヤマガタ行く金を捻出するのにも苦労しているプレカリアートのこちらとしては「いい気なもんだ」という感想しか思い浮かばない。西欧人が第三世界に向ける植民地主義的まなざし。彼は三十年前の写真と現在を照合するのに夢中で、今、目の前で起こっている出来事を見てはいない。第一部の終盤で次女から向けられた批判、「パパは風景ばかり撮って、人々を撮っていない」は本質的なものだが、作家はそれに答えていない。結局、旅をしたからといって人間そう簡単には変わらないということか。「語れ、御身らは何を見たか?」(ボードレール
『垂乳女』は今回の映画祭の中では最も集客力のあった作品。あまりにも長蛇の列のため、ようやくホールに入った時には開始から5分過ぎていた。ありえない。こういうところに運営側の官僚性を感じる。で、内容だが、老女虐待かつ自己愛の作品でうんざりした。開巻早々、年老いた養母が作者の言葉責めで泣き出すまでをクローズアップで捉え続ける冒頭の長回しで席を立とうかと思った。話の内容から察するに、どうやら作者は自分のことを理解してくれない養母(認知症)に怒りをぶつけているらしい。何言ってやがんだ、いい歳した大人のくせに。この作家には「他者」という概念がすっぽり抜け落ちている。そこに広がるのは「あなた」と「わたし」からなる想像界の閉じた地平だ。であるがゆえに、クライマックスで、作者自身の身体の露出された開口部たる女性器(そこにいた約700人もの観客が好むと好まざるとを問わず、巨大スクリーンでこれを見る羽目になった)から生まれでてくる赤ん坊も、彼女にとっては異物ではなく、自身の身体の延長に過ぎない。それは赤ん坊が成長しても変わることがないだろう。ああおぞましい。まさに産まれる瞬間に、自分の局部を撮っていた夫(?)の手からキャメラを奪って(興味深いことに夫の姿はこの作品から周到に排除されている)、「産む」と「撮る」という実践を同時に行うのは、斬新といえば斬新かもしれないし、そこに映画魂の発露を見る向きもあるかもしれないが、単にそんな馬鹿馬鹿しいことは思いついても誰もやろうとはしなかっただけの話である。あるいはそれをやるほど破廉恥ではなかったと言うべきか。それにしても中盤、「ガラスに映るビデオキャメラを構えた自分の姿」というクリシェを彼女ほどの大作家が堂々と撮ってしまうのはいかがなものか(つい先日もB学校映画祭でみたドキュメンタリー作品で同じような映像を見てうんざりしたばかりだ)。ラスト、自分の胎盤を長々とアップで映し、それを刺身代わりに箸で摘んで食べる自分の姿を見せるのも、露悪趣味もここまでくれば天晴れということか。別にこういうホームムービーを撮って身内で見るのは一向に構わないが、わざわざ他人に見せるものではない。セルフ・ドキュメンタリーどこへ行く。
『人民への愛ゆえに』は端的にいって映像を必要としていない。であるがゆえにこれが映画である必然性も全くわからない。『スペシャリスト―自覚なき殺戮者』もかなり酷い映画だったが、それに輪をかけて酷い。やはり『ルート181』が傑作たりえたのはクレフィの功績か。
今日一日、朝から酷い映画ばかり見せられ、香味庵に行くと暴れてしまいそうな気がしたので、別の場所で呑み。