ヤマガタ2007 その5

a)『コロッサル・ユース』(ペドロ・コスタ)◎
b)『ある機関助士』(土本典昭)◎
c)『海とお月さまたち』(土本典昭)◎
大不作だった昨日とはうってかわり本日は大傑作ばかりだったので大満足。
今年のヤマガタでは、ワン・ビンをとるか、ペドロ・コスタをとるか、という映画的実存をかけた二者択一があったと思われるが、私はむろん後者。あまりにも安易な発想と手法で撮られた前者に対し、非職業俳優を一からトレーニングすることから始め、監督含め、たった三人のスタッフで数年をかけて、これだけ高度な映画的達成をみせてくれたコスタにはただただ讃嘆の念しか覚えない。これは誰もが想起するようにストローブ=ユイレの「農民的」な仕事の系譜上にまっすぐ繋がるものだが、だからといって、たとえストローブ=ユイレを想起させる画面が一瞬あらわれるにしても、それを彼らの模倣と言って済ませてしまったのでは何も見たことにはならないだろう。それらの画面がどのように作品の中で機能しているのかを比較してみれば、そうした判断があまりにも批評性を欠いた物言いだということは自明である。あまりにも妥協を排した語りが時にこの映画を人から遠ざけてしまうことがあるかもしれないが、一見、難解そうな外見を持つこの映画も、二度、三度と繰り返してみていくうちに、ジョン・フォードのように単純で豊かなその内実を開示してくれるに違いない。コスタ自身が自負するように、優れた映画は何度も見るに値する。実際、ゴダールの映画を一度見ただけでその豊穣さを組み尽せるものなどいるのだろうか。この作品についても事情は同じである。他方、ワン・ビンの新作など一度見れば十分であることは言うまでもない。恥ずかしながらここで告白すると、この映画における時制の交錯を私は一度見ただけでは十分に理解することができなかった(ようやく物語をほぼ完全に理解するに至ったのは山形、仙台、東京で三度みた後である)。一度や二度みただけでこの作品について早急な判断を下すのは大事なものを取り逃がすことになるだろう。
ちなみにコスタは現在と過去を描きわけるのに、主人公のシャツの色を変えるという極めて単純な方法を使っていることは、すでにこの作品をみた観客にはおわかりだろうし、(眠気のせいで)一つでも台詞を聞き逃したり、画面を見逃したりすると物語の理解に支障をきたすということも言うまでもない。
なお、山形では映写機のトラブルによって画面が必要以上に暗く、逆に投影された英語字幕のせいで画面下三分の一がぼんやり明るくなるという最悪の条件下で上映された。こうしたことを平気でやってしまい、再上映もしないという運営側の対応には大いに疑問を感じる。
また朝からコスタによるレクチャーが行われたが、「今回のヤマガタで見たドキュメンタリー作品の八割以上は、音楽を抜いてしまえば見るに耐えない代物であり、そこで使われている音楽も大抵酷いものである」という相変わらずのコスタ節には深く共感した。
なお『海とお月さまたち』については、id:hj3s-kzu:20040729を参照のこと。