ヤマガタ2007 その6

a)『あなたが去ってから』(ムハンマド・バクリー)×
b)『世紀の光』(アピチャッポン・ウィーラセタクン)○
c)『紙は余燼を包めない』(リティー・パニュ)×
d)『北野武 神出鬼没』(ジャン=ピエール・リモザン)○
e)『映画は生きものの記録である』(藤原敏史)×
政治的にはパレスチナ人民支持の私だが、『あなたが去ってから』は映画的に支持できない。この映画が喜劇として撮られていたら、どれだけよかっただろうと思うにつけ残念だ。被写体としての自己に対する距離の目測を誤ったために、この映画作家は悲劇の主人公としてのナルシスティックなセルフイメージをくどいほど見るものに押しつけてきて、それが鬱陶しい。
『世紀の光』の作家は、傑作『ブリスフリー・ユアーズ』以降、撮る度につまらなくなっていく感じがするのだが、気のせいだろうか。とはいえ、今年のコンペ作品の自堕落さに比べると流石に一定水準をキープしている。
北野武 神出鬼没』は、以前ビデオで見た時はさほどの感銘も覚えなかったが、やはりこれは大きなスクリーンで見られるべき作品である。面白い。大学時代の友人がこの作品の助監督兼通訳をやっていて(ラストに聞こえるのは彼の声だ)、撮影当時に噂を聞いてはいたが、実際にお目にかかるまでにずいぶん長い時間がかかった。
『紙は余燼を包めない』は今回のヤマガタで見た作品中、最も許しがたい作品。プノンペンの娼婦たちを描いたこの作品で、リティー・パニュは「彼女たちに代わって」日々搾取され続ける彼女たちの現状を告発しているつもりらしいが、そうした知識人的な表象=代行作用に含まれる欺瞞については一向に気づいていないらしい。彼女たちが口にしているのは、彼によって書かれたテクストであり、たとえそれが取材に基づくものであろうと、その点において彼女たちは彼の「高邁な思想」を表現するための操り人形の位置にまで貶められている。彼自身の言葉を引用してみよう。「「娼婦」たちはいつも沈黙させられている。統計やNGOの報告のサンプルとして扱われる人々、エイズや人身売買に対する闘いの影に身を潜めている人々、そうした人々の声に耳を傾けたい、別の視点で人々と向き合いたい、と私は思った。顔を見せ、声を聞き、名前を書く。バーやカラオケではなく、彼女たちの居場所で話を聞く。彼女らの言葉はまぎれもなく人間の声である。」こういう言葉を平気で口にできる厚顔無恥な輩には深い軽蔑の念しか覚えない。彼は彼女たちを搾取している女衒と同様、あるいはそれ以上に映画という手段を使って彼女たちを搾取している(にもかかわらず自分を「正義」の側に置いている)。この作品がいわゆる「ドキュメンタリー」映画でないことは、カット割り、キャメラ位置、台詞回しをみれば明らかだが、これが出来の悪い「フィクション」映画であることもそれを見ればまた明らかである。
『映画は生きものの記録である』は面白いところがあるにせよ、次の二点において私はこの作品を評価する気になれない。冒頭の作者によるナレーション、およびスカパー!を見ることだけが楽しみの胎児性患者のシーンの最後でバッハの音楽を伴ってストップモーション(というより静止画)にされる彼のイメージである。もっとも映画批評家出身の作者のことであるから、これらを確信犯的にやっているのだということは想像できる。ならば私とは映画的なスタンスが違うのだから仕方がない。
さて御存知の通り、コンペ部門の大賞はワン・ビン、最優秀賞はピエール=マリー・グレに与えられた。初日に最初に見たこの二作品についての批判はすでに書いた。今回見ることのできた他のコンペ作品の質の低さに比べれば「より少なく悪い」これらの作品が主要賞を獲ったのは無理からぬことではある。ただ授賞式をじっと客席から見守っていたものとしては、アジア千波万波で小川紳介賞を獲ったフォン・イェンにのみ大きな拍手を送り、それ以外の作品の時には腕組みをすることで小さな抵抗を試みたことだけは申し添えておきたい。
それにしても残念だったのは、ヤマガタにおける『AA』(青山真治)の不在である。この作品を凌駕するドキュメンタリーの新作が、今回はたしてあっただろうかと自問してみるなら、その答えは否定的たらざるをえない。
以下、蛇足。授賞式が始まる直前に、会期中の様々な機会に撮られた何枚かのスナップがスライドショー的にスクリーンに流され、『選挙』の「山さん」(数年ぶりに旧交をあたためたが、今回も映画は見逃した)が映った時には場内の外国人たちに大受けしていたが、その中の一枚に行列の先頭でE-chikoさんと語らいながら破顔一笑している私の姿を認めた時には、そんなことに気づくのは知人くらいだとはいえ、さすがに赤面し俯いてしまった。