追悼について

最近、重要な映画作家がバタバタと死んでいくので、たまたまいろいろな人の書いたさまざまな追悼文を読む機会があったのだが、そこでいつも考えさせられてしまうのは、はたしてこの人に故人を追悼する資格があるのだろうか、ということである。もっとも私も以前、ある映画作家の追悼文などをその時の切迫した気持ちに駆り立てられて、一晩で書いてしまった経験があるのであまり他人のことを言えた義理ではないのだが。
思うに、人を追悼に向かわせるものとして、二つの場合があるように思う。故人を個人的に知っている場合か、故人に一方的に「負債」を感じている場合である。もし個人的に知っているわけではない誰かの追悼文を人が書くことがあるとしたら、それは彼が故人に何らかの「負債」を感じているからに他ならない。故人に対する「負債」、つまりその人の作品なりに触れることによって、何か貴重なものを受け取り、その借りを少しでも返したいと思うがゆえに、その人に対する感謝の念らしきものをたどたどしく書き綴るというわけだ。もし仮に私が誰かの追悼文を書くとしたらこのケースだろうし、実際、以前はそうだった。ダニエル・ユイレが亡くなった時には、何か書きたいという切迫した衝動があったが、残念ながら諸般の事情でついにその機会を逸してしまった。
では追悼文においてやってはいけないことは何だろうか。それにも二つあるように私には思われる。「あと出しジャンケン」のように故人を批判することと、故人をダシにすることである。後者については説明が必要かもしれない。これは追悼文に限らないことなのだが、批評がやるべきことは論じられている対象を輝かせることであって、書いている自分を輝かせることではない。まして追悼の場において、故人について語っているようにみせながら、その実、自己を輝かせるための好機とすること。これは本当にやるべきことではないと私は思うし、唾棄すべきことだと思う。このことだけは、これからも書かれるはずの幾多の追悼文をあらかじめ批判すべく言っておきたい。
すでに述べたように、個人的に知っているわけではない故人を追悼する場合、少なくともその書き手は故人の作品に「負債」を感じているはずだし、たまたま故人がさほど多くの作品を残したわけでもない場合、可能な限りそれら全てを見ることが、追悼文などを書く前にすべき、故人に対する最低限の礼儀であるはずなのだが、では、それらを「見た」という痕跡がみられないような文章に触れてしまった時に感じる居心地の悪さとは、はたしてこの書き手は「負債」を返そうとしているのだろうか、そうでないならなぜ追悼文など綴ってしまうのだろうか、という疑問にとらえられずにいることの難しさからくるのだろうか。
a)『日本発見シリーズ東京都』(土本典昭)◎
b)『日本発見シリーズ東京都』(各務洋一)△
c)『東京1958』(羽仁進/勅使河原宏ほか)×
d)『二十年後の東京』(秋元憲)△
e)『ドキュメント路上』(土本典昭)◎