TOKYO FILMeX2007 その1

a)『それぞれのシネマ』
テオ・アンゲロプロス ×
オリヴィエ・アサイヤス ×
ビレ・アウグスト △
ジェーン・カンピオン ×
ユーセフ・シャヒーン ×
チェン・カイコー ×
マイケル・チミノ ×
イーサン&ジョエル・コーエン × 
デヴィッド・クローネンバーグ ×
ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ ×
マノエル・ド・オリヴェイラ ◎
レイモン・ドゥパルドン ―
アトム・エゴヤン ×
アモス・ギタイ ×
ホウ・シャオシェン ◎
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ ×
アキ・カウリスマキ ○
アッバス・キアロスタミ △
北野武 ×
アンドレイ・コンチャロフスキー ×
クロード・ルルーシュ ×
ケン・ローチ ×
ナンニ・モレッティ ○
ロマン・ポランスキー ×
ラウル・ルイス ○
ウォルター・サレス ×
エリア・スレイマン △
ツァイ・ミンリャン ○
ガス・ヴァン・サント ×
ラース・フォン・トリアー ×
ヴィム・ヴェンダース △
ウォン・カーウァイ △
チャン・イーモウ ×
b)『無用』(ジャ・ジャンクー)△
開会式が終わる頃に着けばいいかと思っていたら、見事、時間の読みを誤り、入場した時には『それぞれのシネマ』一本目のドゥパルドンは終わって、北野武が始まっていた。残念。
それにしても並みいる「巨匠」たちの自堕落なさまよ。思うに、今や「巨匠」というのは「年金生活者」のようなものなのだろうか。そうした「巨匠」たちの作品が「映画館(=シネマ)」という主題を与えられた時に一様に見せるあのどこか後ろ向きの感じはそこから来るのだろうか。だから、老いて益々盛んな「現役」ぶりを私たちに見せつけてくれるオリヴェイラの作品に接するとホッとさせられる。とはいえ、その作品自体は見る者を少しも安心させてくれるものではなく、むしろ揺さぶりにかかるのだが。フルチショフとローマ法王のただ一度の出会いを巡るこのナンセンス・コメディは、サイレント映画として撮られていて、「映画館」という主題とは何の関係もない(!)。あるテーマを決められたオムニバス短編など大抵面白くないに決まっているのだから、そんな条件など聞かなかったことにして自分の撮りたいものを撮るというこの「現役」最長老の映画作家の判断は決定的に正しい。一方、与えられた主題に真っ向から取り組んで、またしても傑作をものしたのがホウ・シャオシェンである。キャメラとともに入り口のカーテンを胸踊らせながらくぐり抜けた私たちの眼前に広がる廃虚と化した無人の映画館のひび割れたスクリーンに『少女ムシェット』(ブレッソン)のあの遊園地のシーンが映写されているラストショットは圧倒的である。この二本が白眉。カウリスマキの作品は、ブルジョワのための余興のようなこのオムニバスにあって、映画(とロック)が常に労働者とともにあったこと、そしてそれは今もなお有効な武器たりうることを無表情かつ無言の男たちとともに示している。彼の他に誰が『工場の出口』(リュミエール兄弟)にあんな音楽(褒め言葉)を組み合わせることを思いつくだろうか。モレッティはいつもながらの自作自演だが、彼の人生の様々な時点に見た作品について、それを見た映画館で(なかには潰れてガレージになった場所もある)一人語りする姿は微笑ましい(冒頭の「フォーカス!」には笑った)。ラウル・ルイスも、いつもながらの虚実入り交じる作風だが、『フェイク』のウェルズを思わせるマイケル・ロンズデールの存在感のおかげか悪くない。ツァイ・ミンリャンは女が映画を見ながら串に刺した梨を食べ(台湾ではこういう食べ方があるのかと感心)、その食べかけを席の隙間から後ろの席の男に振り向きもせずに差し出し、煙草を吸いながらやはり映画を見ている男が少し間をおいてからそれを齧るというショットがよかった。
短編とはいえ、チミノとスレイマンの新作がこんな機会に見られたのは嬉しい驚きだった。ただし両者ともに作品は微妙。というかチミノは悪ふざけしすぎ。彼の作品に出てきた「監督」(作中ではゴダールもどきのように言われていたが、あれはゴダールを経由したフラーもどきだろう)のように、もはやチミノもフランスでしか撮れなくなってしまったのだろうか。アウグストは凡庸極まりないが、アラブ人留学生役の女優の美しさが作品を救っている。クローネンバーグの不快さは突出しているが、だからといってこれを支持する気にはなれない。ギタイが駄目なのをそろそろ皆気づくべき時だろう。下品で醜く頭の悪いこの作品を見て、彼がユダヤ系イスラエル人映画作家であるということ以外に何の取り柄もないような気がしてきた(とはいえ『ヨム・ヨム』は捨てがたいのだが)。パレスチナ人映画作家でありながら、それを特権視せず、ユーモアを常に忘れないスレイマンの上品さと並べてみれば、そのことははっきりする。ルルーシュとシャヒーンは御愛嬌。典型的な「年金生活者」ぶりを見せている。とはいえシャヒーンはともかくとして、ルルーシュを「巨匠」だなんて誰も思っていはしないが。
さて自分の「映画館」で何を上映するか(しないか)に、それぞれのセンスが問われると思うのだが、ゴダールを選んだ作家はことごとく失敗している。エゴヤンとイニャリトゥである。もっともエゴヤンの場合、ゴダールというよりは、それを介してのアルトーへの言及なのだが(もちろん『女と男のいる舗道』である)。イニャリトゥは許しがたい。ほんとバカじゃなかろうかと思った(見ればわかる)。ちなみに直接、ゴダールを引用せずとも、ダルデンヌ兄弟ブレッソンを音だけ引用)とキアロスタミの映画館で涙を流す女優たちのクローズアップには『女と男のいる舗道』のアンナ・カリーナのイメージが二重写しになっていることは明らかである。いずれの作品も駄目だとは思うが(女優の顔にカリーナほどの強度がない)、キアロスタミの作品で女が最初に涙を溜める瞬間の映像には揺り動かされたことは確かだ。イニャリトゥの他に「盲目」という主題系を扱った作家は先ほどのルイスとチェン・カイコーがいる。後者は、『人生は琴の弦のように』という同じ主題系の傑作を持つ作家にしては、その主題の処理の仕方はいかにも粗雑である。この映画作家のここ十年ほどの停滞ぶりには心が痛む。なお同じ感慨をアンゲロプロスにも感じる。この『こうのとり、たちずさんで』のヴァリアントとも言える作品の無惨な出来を見るにつけ、まさに『こうのとり、たちずさんで』のクライマックスにビデオモニターの画面を登場させた時から、この映画作家の頽廃が始まったのだと常日頃考えている身としては。ところでゴダールなどをうっかり引用してしまったりせず、『エマニエル夫人』(ジュスト・ジャカン)の映画館でのセックスシーンを上映してしまうポランスキーは遥かに聡明なのかもしれない。とはいえ『テナント/恐怖を借りた男』でイザベル・アジャーニとともに「映画館での性行為」を主題とした名場面を撮ったこの作家にしては、この作品の落ちはいかにもぬるい。『ふたつの顔をもつ女』(ジャック・ノロ)のようにとまでは言わないが、もう少し何かアイデアがほしい(ちなみにノロの作品は「映画館での性行為」についての映画の最高傑作ではなかろうか)。ポランスキーの他に「映画館での性行為」を扱ったのは、アサイヤス、コンチャロフスキー、ウォン・カーウァイ。というか諸君、映画館はセックスする場所じゃありません!と声を大にして言いたい(とはいえ、トリュフォーの回想によれば、占領期のパリの映画館はもっとえらいことになっていたのだった)。この中ではウォン・カーウァイの秘めやかな感じは嫌いじゃない。カンピオンはミュージカルをなめすぎ。コーエン兄弟北野武と同工異曲。ただこちらの方がややマシか。サレスは、アイデアは嫌いじゃないが、画面がよくない。ガス・ヴァン・サントは出てくる映写技師の青年がもろゲイ・テイスト全開なのだが、その彼がキートンよろしく海パン一丁になってスクリーンに入り、そこにいる水着の美女と夕陽の海を背にキスをするというものだが、うーん……。チャン・イーモウのは、まあこういうの好きな善男善女はいるんだろうけど私はパス。
上映中、あまりにもつまらない作品が多かったので、退屈しのぎに個々の作品を誰が撮ったのかをクレジットが出る前に当てるクイズをして秘かに楽しんでいたのだが(ちなみに正答率80%、事前に参加監督を知らなかった割には好成績では。知っていたら全問正解したはず)、見ていて全く分からなかったのがヴェンダースの作品だった。おそらく彼はDVキャメラの登場とともに最も文体の変化を被った映画作家なのではないか。映画館とは名ばかりで、スクリーンの代わりに大型テレビモニターが置いてあるだけのアフリカの小村。そこで流される『ブラックホーク・ダウン』(リドリー・スコット)を食い入るように見つめる村人たちの顔に表れる喜怒哀楽を赤外線撮影したいくつものクローズアップが核をなすこの作品がヴェンダースによって撮られたことに深く動揺した。それは「ヴェンダース」という固有名によって私たちが知っていたものとは全く似ていない。この未知をどう受け止めるべきなのか、もう少し考えてみたい。よって彼に対する評価は暫定的なものである。
えーと、これで一応全員かな。*1というわけで『無用』。最初の三分の二あたりまでは、こんなフランスのテレビ局が作ったみたいなドキュメンタリー撮りやがって、と思いながら見ていたのだが、山東省の炭坑町に舞台が移ってから俄然、画面が活き活きしてくる。『世界』でもそうだったけど、やはりこの映画作家が撮りたいのは、華やかな世界の浮薄でキラキラした人たちじゃなくて、田舎の冴えない人たちなのよね(本人はあまり自覚してないみたいだけど)。最後、このショットで終わるだろうなと思ったらその通りだったのだが、全体としてはどうも中途半端な気がする。

*1:あ、ラース・フォン・トリアー忘れてた。駄作。