TOKYO FILMeX2007 その3

a)『非機械的』(リッテイク・ゴトク)◎
しかし解せないのは、ダニエル・シュミットエドワード・ヤンの追悼特集を満席にした人々がリッテイク・ゴトクに大挙して押し寄せないことなのだが、それとも昼間の回は人が入っていたのだろうか。あるいは皆アテネに見に行くつもりなのだろうか。シネカノンのごっそり空席になっている前方の席を見つめながらそんなことを考えていた。選択肢が増えれば増えるだけ逆に人は一極に集中するというこの不条理。*1まあ他人のことはどうでもよい。私はこの傑作に魅了された。
オンボロタクシーとその運転手の奇妙な愛情を描いたこの作品は、最初の土砂降りの屋外を室内から捉えたショットからこちらの映画的感性を揺さぶりにかかる(これに匹敵するのは『母情』(清水宏)で清川虹子が薬を買うシーンの背後に見える土砂降りの屋外くらい)。この冒頭に出てくる自分の結婚式に遅刻しそうになっている間抜けな青年とその伯父のコンビが主役かと思いきやそうではなく、難儀している彼らの前に少年が現れて、墓地のそばに住む気難しそうな運転手に二人を案内し、彼らはそのオンボロ車に乗せられて結婚式場まで運ばれていくのだが、その道中、大雨のせいで濁流と化した山道を車で渡るために彼らは一旦降車させられ、ずぶ濡れになりながらオンボロ車を押すはめになるのだった。この小さな濁流を渡る車の姿を俯瞰から捉えたショットには、最良のフォード映画の渡河シーン(例えば『幌馬車』)と同じ血が脈打っている。冒頭からここまでに到る的確なショット構成を見ても、ゴトクが、グル・ダットのように(『55年夫妻』を見よ!)アメリカ映画に習熟した映画作家だということがわかるのだが、さらに彼が凄いのは、この後の怒濤の展開=転回である。この挿話で提示された「結婚」という主題を変奏するように、この独身の運転手の前に今度は駆け落ちしたカップル(ただしそのことが分かるのは少し後である)が現れ、今度は二人を乗せて車は走り出すのだが、彼らを目的地まで送り届ける途中、ふいに挿入されるそれまでの安定した構図を揺るがしにかかるような、物語上ににわかにはその収まる時空を見出せない、大きな旗を振る草原の一団を手持ちキャメラでとらえたドキュメンタリー的なショット。これは一瞬挿入されるだけなのだが、それまでの堂々たる古典映画ぶりを見ていたものには、これはかなり衝撃的である(このショットが説話内で果たす機能がわかるのはずっと後になってからだ)。この駆け落ちした若い女に、それまで車一筋だった運転手が恋心を抱いたりするのだが、それくらい彼女は魅力的である(オンボロ車の破れた幌の穴から見える空に無邪気に喜ぶ彼女の美しさ!また彼女が恋人に買ってもらう櫛の見事な使われ方)。そんな運転手にオンボロ車は牝馬のように嫉妬したりするのだが、そうした齟齬が徐々に広がっていき、最後に私たちはある種の残酷さを目にすることになるのだが、後に起きるそんな出来事など知らず、一仕事終えたばかりの運転手が汚れた愛車をきれいに洗い、それに身を寄せて煙草を吸う、ひろびろとした青空をバックに「二人」をとらえた仰角ショットはひたすら美しい。

*1:「ブルータス」最新号の「映画選びの教科書」という特集タイトルを見た時にも同様の感想を持った。お前ら、見る映画選ぶのに「教科書」が必要なのか、そのくらい自分で見つけろよ、っていう。ああ世も末だ。