夕映え少女

a)『南部の人』(ジャン・ルノワール)◎
b)『この土地は私のもの』(ジャン・ルノワール)◎
c)『浜辺の女』(ジャン・ルノワール)◎
d)「夕映え少女」より
『イタリアの歌』(山田咲)×
『むすめごころ』(瀬田なつき)○
『浅草の姉妹』(吉田雄一郎)×
夕映え少女』(船曳真珠)×
瀬田なつきが新作を撮ったとあれば、何を措いても駆けつけるのが同時代人の義務だと考えているので、ルノワール三昧の後、最終日の「夕映え少女」を見に渋谷へ。
結論から先に述べると、やはり『むすめごころ』が群を抜いて素晴らしい。少女を主人公にした映画を撮らせたら、この作家は現在、日本最強ではなかろうか。作家自身がある種の映画的自由を謳歌していたかにみえる前作『とどまるか、なくなるか』に比べると、商業的な縛りゆえか、そうした側面は控えめに留められているが、逆にこの作品で見ることができるのは、与えられた脚本から作品世界を立ち上げるべく、慎ましく演出家に徹した作家の姿勢である(そして他の三本に欠けているのはまさにこの姿勢である)。廊下の壁にもたれかかって画面外を向いているヒロインの一人を捉えたファーストショットから、この作品は自身が「映画」に他ならないことを清々しく宣言している。大人になる一歩手前の二人の少女の交流を描いたこの物語が展開される舞台としての寝室、日本間、川、などにはこの映画作家を育んできた豊かな映画的な記憶が反映されているが、決してそれらはシネフィル趣味に陥ることなく、映画作家の中で十分に咀嚼された上で演出の基盤となっている。被った布団から出した彼女たちの上気した顔のクロースアップにはまだ異性を知る以前の少女の身体が持つ生々しい官能性が息づいているし、学校の階段の踊り場で将来に対する漠とした不安を語りながら、一方が他方の肩に頭を持たせかける姿を背後から捉えたツーショットの美しさには不覚にも涙した。あるいは雨に髪を濡らし思い詰めた表情で恋人に向かい合うヒロインの眼差しの素晴らしさ。彼女たちに注がれる視線に比べると、二人を両側に挟んでトライアングルを形成する柏原収史に対する映画作家の関心はやや薄いように思われなくもないが、それはないものねだりというべきだろう。私たちは彼女たちの一挙一動に最後まで目を離すことができないし、それによってある種サスペンスフルな時空間が立ち上がってくる。輪の形に曲げられた少女の指の間から息を吹き込まれることで生じるシャボン玉のように、それらの一瞬一瞬は脆くも儚い生を生きている。しかしそこでまさしく賭けられているのは「映画」である。
これに比べると他の作品は相対的に出来がよかったり悪かったりするテレビドラマに過ぎないのだが以下、簡単に見ておこう。
『イタリアの歌』は、撮照部のスタッフワークのおかげで、前半はそこそこ見られるのだが(とはいえ導入部の高橋和也を捉えたバストショットには映画的感性が決定的に欠如しているような印象を受ける)、ヒロインの回想部に入って彼に人体発火をさせるショットを見せられてしまうあたりから、この作者の映画的知性の底の浅さが見切れてしまう(私はこのショットを見て失笑してしまったが、どうしても人体発火を見せたいのなら安易にCGIを選択せずにもう少し工夫したほうがいいと思う)。このシーンとラスト近くの彼の断末魔のシーンはこの作品全体にホラー映画的なテイストを与えるものだが、これは単に作者の幼稚な趣味性を観客に押し付けているだけで不要である(こんなものを「作家性」と勘違いしてもらっては困る)。この作品の演出のポイントは、二人の女性の関係性を軸に、ヒロインの愛情の対象であったかもしれない男性が事故により醜く変容し、彼女にとって「不気味なもの」へとなっていく過程をいかに描くかというところにあるはずなのだが、前述したように作者の興味はある種の見世物性へと向けられているため、二人の女性の人物像を把握し損ねている。それを端的に示すのが看護婦から差し出された水の入ったコップを手で払いのける時のヒロインの演技だろう。冒頭に字幕でわざわざ「昭和十一年」と入り、そこまでの芝居がそれなりに時代設定にそったものとなっているにも関わらず(ついでにいうとこの作品の台詞はどれも酷い)、この瞬間の彼女の演技は「今時の普通の女の子」としてのそれである。この台詞回しを聞いた途端、そこまでの彼女のキャラクターが一挙に崩壊するのを私は目にしてしまった。いったい彼女の人物像を作者はどう捉えているのか。なおラストの爆撃機の来襲音は単に思わせぶりなだけで内容空疎。
『浅草の姉妹』は、冒頭の雑な手書きの字幕とオフの活弁からして見る気が失せるが、そこは我慢して見続けると、花やしきの観覧車を使って同時刻に主人公の三姉妹がいる空間をそれぞれ描き分けようとしていて、その心意気は買わないでもないのだが、それを表現するのに『絞殺魔』(フライシャー)というよりは黒沢清あたりから借りてきたと思しき分割画面が使われていて、こちらとしては「あーあ、やっちゃった(ガッカリ)」と歎息をもらしてしまうのだった(こういうのを悪い意味でのシネフィル趣味という)。ついでにいうとここでの三女の見た目ショットの次女に絡む男の芝居も最悪。また見せ場であるはずの境内でのアクション場面にしても編集が甘いので見ていてかったるい。各カットそれぞれカット頭と尻をもう少し詰めれば、もう少し見られるものになると思うのだが。なおこの作品に限らず、「戦前の浅草」→「レトロ趣味」とでもいうような美術部の貧困な発想には辟易させられた(それはこの作品の活弁の使用についても言えることだ)。「レトロ」とはあくまで後世の人間の物の見方であって、当時の人間にとって(ということはすなわち作中人物にとっても)それは流行の先端だったはずだし(戦前の浅草は今なら渋谷あたりに相当する繁華街だったのでは)、そのことに対する想像力が欠けているように思われた。また和服を着た女性が小走りに駆ける後ろ姿はもう少し美しく見えるように演出したほうがよい。
夕映え少女』は、主人公の作家を呪縛するイメージとなるはずの、冒頭の夕暮れの中、自転車に乗って振り返る少女のショットが全く魅力的に撮られていないので、何故、登場人物たちが彼女に魅了されているのかがさっぱり分からず、必然的に物語が空転してしまう。また問題の絵を巡る人物関係とそれが位置する空間の描き分けがなされていないように思われるし、ラストの決定的な場面を目撃した女中がなぜ少女たちの行動を傍観していたのかが意味不明(たぶん彼女は彼らの姿に魅了されて動けなかったのだろうが、こちらにはそれが伝わってこない)。そうした本筋の欠点とは別に私に興味深く思われたのは、脇役の若い女中が犬とキスするショットの異様なエロティシズムである。この作者の才能はもしかしたらこちらの方面でこそ開花するかもしれないと思われるので、以下、老婆心ながら述べると、この女が旅館の客の男女のセックスを覗き見しながら自慰をするシーンで、彼女の見た目ショットがインサートされるが、そこでの男女の対面位での腰の使い方はアダルトビデオのそれを思わせる非映画的殺伐さを感じさせるので、『四畳半襖の裏張り』(神代辰巳)あたりのセックスシーンのねちっこさをぜひ盗んでもらいたいし、女中のアップ、見た目ショット、廊下で自慰をする彼女のロングショットだけからそのシーンを構成するのではなく、せめて太腿の間にゆっくりと差し入れられる彼女の手のインサートくらいはあったほうが盛り上がるのではないかと思う。あるいはこの作家の資質的には神代よりは小沼勝の方が向いているかもしれない。なお、浜辺で漁師たちが網を引いている姿を横移動で捉えたショットの場違いなネオレアリスモ性には一瞬、「映画」を感じた。
夕映え少女 http://www.fnm.geidai.ac.jp/yubaeshojyo/