三月大歌舞伎を見に歌舞伎座へ。演目は「鈴ヶ森」、「娘道成寺」、「お祭佐七」。「鈴ヶ森」の見せ場は後半の長兵衛と権八との出会いにあるのだろうが、個人的には立ち回りの趣向に興味を引かれた。ふつう歌舞伎の立ち回りというのは形式だけの場合が多いのだが、鶴屋南北の作のためか、芝翫の権八が非人どもを次々に斬っていくところで、彼らの顔面やら尻やら鼻やらが次々に削ぎ落とされ、手や足が切り落とされ、入墨した背中が真一文字に裂けるというように工夫を凝らした残虐描写がなされている点が面白かった。またラストで実際に舞台上で手紙を燃やすところがあり、去年の五月に菊五郎の「め組の喧嘩」の喧嘩場で男たちが次々に口に含んだ水をバーッと下に吹きかけるのを見た時にも感じたことだが、基本的に作り事であるはずの舞台の上に、こうした火や水といったリアルなものが一瞬侵入する瞬間にはハッとさせられる。「娘道成寺」は昔、テレビの舞台中継で見た時にはそれほど面白いと思わなかったのだが、藤十郎(喜寿!)が本当に美しく、上手い人が踊るとこんなに違うのかというのをまざまざと見せられた。「お祭佐七」は序幕のにぎやかな祭りの余興の場で、舞台下手の手前に芸者衆が演じる「おかる勘平」、舞台上手の奥で菊五郎の佐七と時蔵の小糸の出会いの瞬間の視線のやりとりが二つ同時進行していて、映画(ただし初期映画を除く)だったら画面の前景と後景を使って(必要に応じて切り返しを伴って)縦構図で示されるようなシーンが、横方向に偏心化されているので、ここでのメインの出来事である菊五郎時蔵のやりとりを見るためには、上手の芝居(これが「おかる勘平」の悲恋であるということは、佐七と小糸の恋の進展に不吉な影を投げかけている)を見ることを犠牲にせねばならず(というのもこちらに目を向けると二人のささいな仕草を見逃してしまうから)、映画においても画面の全ての要素をくまなく見ることは困難であるとはいえ、それ以上に横方向に広がる舞台ではその困難はさらに増すことを実感。とはいえ面白い演出だとは思う。「お祭佐七」の物語の叙事性というか、突き放したようなそっけなさにも吃驚。

帰りにB学校に寄って、ボニゼールの講義を途中から聴く。B学校生、G大生あわせても二十人ちょっとしかいなかったのではないか。もったいない。打ち上げに参加し、彼の批評集『盲目の領野』にサインしてもらう。通訳をされていたFさんに配布資料のケアレスミスを二カ所ご指摘いただく。なはは。