批評と研究

「映画より自分の方が好きな人は、絶対に映画なんか撮っちゃいけないね」というのは某氏の名言だが、映画について「書く」ことに関しても同じことがいえるのではないかということを最近考える。
前にも思ったが(http://hj3s-kzu.hatenablog.com/entry/20071026)、「映画より自分の方が好きな人」の書く文章は、「自分は映画が大好き!」的な、いわば多幸症的な雰囲気を発散させているもので、実際そこで発信されているメッセージを一言で要約すると「自分は映画(が好きな自分)が大好き!」ということだったりする。ただこの括弧にくくられた部分というのは、よほど注意深く読まないとなかなか気づかないものなので、世間ではこういう人は「映画が大好き!」な人として認知されてしまう(というのも「世間」はアバウトにできているから)。まあこういう人はこちらに実害が及ばない限り、そのまま放っておけばいいだけの話なのだが、ある種「権威」の衣を纏って現れる時にはこちらも見過ごすわけにはいかない。例えば、ある映画作家の「全作品」を見たことがないのに、あたかも見たかのような口ぶりで「初心者」に向けて訓戒を垂れてみたりする場合がそうである。あるいは自分がそれほど詳しいわけでもない分野の作品群について、もっともらしい系譜を描いてみたり。
こういうことが生じるのは、そもそも現在の「映画批評」が人手不足だからなのかもしれないのだが(もちろん「ライター」は沢山いる。しかし「批評家」の名に値する人は稀だ)。*1そんな人手不足の解消には「映画研究者」というのはうってつけである。何しろ「映画」を「研究」してるんだから。ただし私の友人にも「映画研究者」が何人もいるので彼らの名誉のために言っておくと、他の分野の「研究者」がそうであるように「研究者」といってもピンからキリまである(私がここで批判しているのはもちろんキリの方である)。優れた「研究者」であればあるほど自分の専門分野以外については語りたがらないものだし、もし語らなければならない時には慎重に発言する。もちろん資料の扱いに関しても丁寧で、たとえ日本語で翻訳が出ているものに関してもちゃんと原典にあたる(まあアカデミズムの世界ではそれが当たり前なんだろうが)。
こうしたヘンテコな事態が生じるのは原稿を依頼する方にも責任がある。例えば日本の古典文学の研究者にフランスの現代文学についての批評の原稿を依頼する編集者というのはまずいないと思うのだが、映画の世界ではこうしたことが平気でまかり通ってしまう(もっともその研究者がフランス現代文学の良き読者である場合は別である。だがそうしたことは稀だ)。困ったもんだ。まあフランス現代文学の批評を依頼された日本古典文学の研究者のような羽目に陥った人にせめてお願いしたいのは、知ったかぶりをやめてもう少し謙虚になってもらいたいということに尽きる。また「研究者」なら資料の扱いもキチンとしようねということ。批評もナメられたもんだ。

*1:「ライター」と「批評家」の差異を私は次のように考える。前者はある共有されたパースペクティヴを前提とした「趣味の共同体」の内部で、その共同体をいささかも揺るがすことのない言説を再生産し(つまり「イデオローグ」)、後者はその共同体のパースペクティヴそのものを揺るがしかねない言説を共同体の境界線上で創出しようと試みる。ちなみにテレビに出てくるような自称「映画批評家」は前者である。彼らは自分を「主人」であると考えているが、その実、資本にとって都合のいい「飼い犬」にすぎない。