ペドロ・コスタの特別講義に15分遅刻して到着。朝まで配布資料作成をしていたので寝坊してしまった(ちなみに朦朧とした頭でキーボードを叩いていたのでケアレスミスをまたまたしてしまった。なはは。*1

で今日も朦朧とした頭で聞いていたので、あまりきちんとしたことが書けず誠に申し訳ないのだが、まあ超簡単に要約すると「撮影の際にはリスクを負え(他人がやってはいけないと言うことをあえてしろ)」、「映画とは物事に別れを告げるとともに、何らかの仕方でそれとの紐帯を失わないようにする方法である」、「映画を作ることで得ることよりも失うことの方が大きい」、「世界を信じること(おそらくドゥルーズ的な意味で)」といったようなことだろうか。他にもいろいろといいことを言っていたような気がするが忘れた(思い出したら追記します)。また「映画史なんてない」、「シナリオはいらない」、「演出はするな」といったことも言っていたが、これは話半分に聞いておくべきだろう(実際、講義後半の西山洋市との対話でもそこが議論の争点になっていた)。確かにコスタのいうことは一面真実なのだが、これは『血』から『骨』に到る傑作群を撮りながら、これまでの自分の方法論をいったんリセットしてさらに『ヴァンダの部屋』に進んだ男だからこそ、こういうことが言えるのであって(ちなみに『ヴァンダ』以前以後では方法論が異なることを前提として押さえておかないと、今回初めて彼の作品に接して彼の話を聞いた人は混乱したと思う)、彼ほどの才能のない人間(つまりあの場にいた聴衆ほぼ全員)がこれを真似するとエライ目に会う(それでもやる!という人はぜひやってみて下さい。応援します)。まあそれができる人間なら映画学校なんて行く必要がない。なお個人的な経験から言うと、映画学校で何かを学んだという記憶はほとんどないが、一緒に映画を作ったり、映画を肴に呑んだりする友人(講師を含めて)ができたことは一番のメリットなので、もし映画学校に行く必要がない人も仲間作りのために行ってもいいかも(ちなみに私は三年通ったが、卒業後に呼ばれて参加した『AA』の方が得るものが大きかったかな)。またコスタにしたってフォード、小津、溝口、ターナー、ブレッソンチャップリンといった先人から学んだことは沢山あるわけだし、ならば彼より凡人な私たちだって過去の映画を見ても損はないわけである。
ちなみに今日は講義で使うかもしれなかった『のらくら(ゴルフ狂時代)』(チャップリン)、『メートル・フ』、『弓矢によるライオン狩り』、『私は黒人』(ジャン・ルーシュ)のDVDを開始一時間前に用意する予定だったのだが、私の寝坊のため取りやめになった(関係者各位には深くお詫び申し上げます)。チャップリンとルーシュを素材にコスタがどんな話をしたのかには非常に興味があるが、その代わりに何と嬉しいことにコスタが用意したアントニオ・レイス(!)の作品からの抜粋を二つ見ることができた(これがどんなに幸運なことか会場にいた皆さんお分かり?)。他に上映したのはケビン・ブラウンロウがアーカイブから発掘した『街の灯』のアウトテイク(これも最高)。

その後、コスタを囲む飲み会に参加。NFCの岡田さんやアテネの講演を終えたクリス&トシ・フジワラ両氏が現れたあたりから場が賑やかになりだし、西山さんとしんみり端っこで呑んでいた私もジェリー・ルイスの話題のあたりから真ん中に呼び出される(その後の話題は岡田さんの日記を参照のこと)。皆さんジェリー・ルイスを見ましょう(ゴダールも影響を受けているし)。ちなみにルイスが書いた映画作りのハウツー本『Total Film-maker』はコスタもおすすめの名著。また昨日、今日と通訳をつとめておられたYさんが堀禎一の昔の8ミリのヒロインだったと知って吃驚。イッツ・ア・スモール・ワールド。お開きになってそのまま帰ろうとしたらトシ氏に拉致られ、Aさんと三人で渋谷のパブで軽く呑んでギリギリ終電。

ペドロ・コスタ 世界へのまなざし

ペドロ・コスタ 世界へのまなざし


ペドロ・コスタ 遠い部屋からの声

ペドロ・コスタ 遠い部屋からの声


映画の授業―映画美学校の教室から

映画の授業―映画美学校の教室から


マノエル・デ・オリヴェイラと現代ポルトガル映画 (E・Mブックス)

マノエル・デ・オリヴェイラと現代ポルトガル映画 (E・Mブックス)


Total Film-maker

Total Film-maker


ペドロ・コスタ DVD-BOX (血/溶岩の家/骨)

ペドロ・コスタ DVD-BOX (血/溶岩の家/骨)

*1:一応、今日参加した方のためのアフターサービスとして書いておくと『コロッサル・ユース』以降の三本のクレジットに「脚本:ペドロ・コスタ」とあるのは間違いなので削除して下さい。ちなみにコスタ本人は自分の作品にシナリオはないと言い張っていたが、これは話半分に聞いておくべきだろう。いわゆる完成された「シナリオ」というのは確かに『ヴァンダの部屋』以降の作品にはないと思うが(『骨』以前の作品には確実にあると思う)、撮影すべき事項を記したメモ書き程度のものはあるだろうし、それも「シナリオ」と看做すことはできる。実際、自主映画のような小規模な現場では実際それで十分な場合が多い(この問題については『映画の授業』の高橋洋のシナリオ論を参照のこと)。もしこうしたメモ書きすらなかったとしたら『コロッサル・ユース』のような複雑な構成を持つ作品を撮ることはほとんど不可能だと思われるし、明らかにあそこには「妻への手紙」のような「テクスト」がある。なおこの「手紙」(『溶岩の家』にも出てくるのと同じ内容)は、佐藤雄一氏の教示によれば(id: E-chiko:20071227)、ロベール・デスノスが強制収容所から妻にあてたラブレターである。近く出る『kader0d』2号(http://kader0d.petit.cc/)に、佐藤氏による『コロッサル・ユース』論とともに、その手紙の翻訳が掲載されるので参照のこと。また配布資料に書き忘れたが『マノエル・デ・オリヴェイラと現代ポルトガル映画』にはコスタとストローブ=ユイレの対談が載っているので必読。