あなたの知らない世界?

a) 『幽霊暁に死す』(マキノ正博)◎
b) 地下映画上映会第二弾「あなたの知らない世界」より
『さらばズゴック』△
『ゴーゴーババア』×
『眼の光』×
『非在/風景』×
『南極旅行』×
『阿呆論』×
ハーケンクロイツの男』○
『38.9』△
『ドウロ河の渡渉』△
『面会謝絶刑事』△
『みなものむこう』○
シネマヴェーラの上映が告知より15分近く早く終わったので、ラピュタで『色情姉妹』(曽根)見られるじゃん(ラッキー)と思い、急ぎ足で渋谷駅に向かい、山手線で新宿まで行き、さて中央線に乗り換えようとすると、人身事故のため、中野方面の電車が運転休止とのアナウンスが。焦る。すぐに携帯で他のルートを調べると、高田馬場まで行って東西線に乗り換えれば着けると分かる。ああ電車一本分時間損した、と思いつつ、何とか阿佐ヶ谷まで着く。でラピュタまで急いだのだが、上映開始後十分を過ぎているので入れません、と受付嬢に断られる…(人身事故がなきゃ余裕で間に合ったんだけどね…)
肩を落としつつ、京橋へ。で高橋洋プレゼンツ(?)地下映画上映会第二弾「あなたの知らない世界」で自主映画を四時間ほど立て続けに見る。ソドムの市BBSで高橋さんが

本当に知らない映画ばかりだと思いますが、たとえば言葉において「命」とは、一つの単語の次にどんな単語が連結されるか、に極まるのです。これらの映画はすべて映画表現においてそれに匹敵する破壊性から探求されたものであり、だから何も信じていない。映画の可能性を指し示すのは彼ら何も信じていない人々です。それは既存の慣習的文体へのアンチですらない。彼らは初めからそうだったのです。メジャーもマイナーも関係ない。映画を本当に動かすのは彼らです。どうか知らないものを見る恐ろしさを体験して下さい。

と檄を飛ばしていたので、期待と不安のないまぜになった気持ちでドキドキしながら参加したのだが…、見事に期待外れだったのは残念。私にとっては、今回上映されたものは既知の範囲内でしかなかった。こちらのパースペクティヴを突き崩してくれるような野蛮なもの、愚鈍なものが見られるのではないかと本気で考えていたこちらの期待値が高すぎたのか…(もちろん『ハーケンクロイツの男』(高橋洋)や『みなものむこう』(井手豊)は素晴らしかったのだが、これらは再見である)例えばド頭に上映された『さらばズゴック』だが、いくつか美しいショットはあったものの、やはり個人的にはこの手のものはイメージフォーラム系の上映会で見たことがあるものとそう変わりはないので驚きは皆無。しかも素晴らしい音楽が付いているので、本来なら「非=人間的なもの」として企図されたであろう「単調な」それらの風景ショットの数々が、その伴奏のために何となく見られるもの、つまりは「人間的なもの」の側に回収されてしまう。もしこの作品が60分のサイレント作品であったら、もっと「非=人間的なもの」になり得たのではないか(そしてそれは見るものに快楽ではなく苦痛を強いる体験となるだろう)という可能性を考えると返す返す残念。その後に上映された同じ作者による短編集がどれも自堕落な代物であったために、『さらばズゴック』で一瞬持ちかけたこの作者に対する興味が全く失せてしまった。あれら短編は「既存の慣習的文体へのアンチ」でしかない(しかもクリシェに満ちた)。『38.9』、『ドウロ河の渡渉』、『面会謝絶刑事』にはパロディアス・ユニティ的なものに対する憧憬が透けてみえるが、もう21世紀に入って十年近くが経とうというのだから、こういうシネフィル趣味はいい加減に捨ててもらいたい。とはいうものの、女優の撮り方(特に『面会謝絶刑事』の屋上シーン)や、それぞれの作品を締めくくるにあたって現れる抒情性(花びらのように川面に漂うポテトチップス)は悪くない。とまあ、予定よりずいぶんと長くこの上映会についての感想を書いてしまったが、いずれにせよ「知らないものを見る恐ろしさ」は全くなかった(このことは強調しておきたい)。ことによると高橋さんはこの上映会を今のB学校生に対するショック療法(つまり彼らが何となく持っている漠然とした「映画」のイメージを破壊する)として企画したのではないかと推察され、実際にそうだと思うのだが、果たしてあの場に当のB学校生はどれだけ来ていたのだろうか(最近の「受講生」たちとは全く交流がないので、来ていたとしてもこちらとしては分からないのだが、知り合いの「修了生」は数人きていた)、あの場の雰囲気を支配していたのは「ソドムの市BBSオフ会」のノリだったのではないかと邪推するが、本当のところはどうだったのだろうか。もしこの邪推が当たっていたとするならば、これは高橋さんが意図していたこととは真逆の結果なのではないだろうか。これは不健全だと思うし悪循環だと思う。また常日頃、「作家主義」に対して批判的であるはずの高橋さんがこのような上映会を催してしまうことは、それによるある種の認定作用によって、反転された悪しき「作家主義」を産み出してしまう危険性を孕んでいるのではなかろうかというこちらの懸念は杞憂だろうか。ダメ映画をダメ映画として評価するというのは分かる。しかしそれを何か革命的なものであるかのように考えるのは錯覚である。あるいはダメ映画の中にももしかしたら革命的な要素が含まれていることがあるかもしれない。しかし今回見た作品群にはそれはなかった。
以上のような感想を持ったので、打ち上げには積極的に参加する気になれず、不破戒さんと不殺生くんと三人で呑みに(ちなみに私は不慳貪)。とても楽しい呑みだったので、ついつい朝までコース。帰宅して玄関の鍵をどこかに落としたことに気づき、ブルーになる。