PASSION

a)『アコーディオン』(イーゴリ・サフチェンコ)○

                  • -

b) 『PASSION』(濱口竜介)△
「反射してますか?」この溝口健二の口癖を何度も思い浮かべながら、最初の三十分の、役者たちの「即興演技風の芝居」をうんざりしながら耐えた。何故、自分が「今ここで」こんなものをいまさら見なければならないのだろうか、という根源的な疑問が生じ、何度も席を立ちたくなった。でもどこかにこの作品の「入口」があるはずだと思い、それを探しながら見続けたのだが、やはり見つからなかった。特に冒頭のパーティーシーンは演出、撮影、編集とも駄目だと思う。
ようやくこの作品に入り込めたのは、ヒロインである女教師の河合青葉が「暴力」について生徒たちとディスカッションする教室のシーンで、「即興演技風の芝居」をマルチかつロングテイクで撮って編集段階でコンテを作っていくようなそれまでのシーンの演出と違い、教室の場面の演技は極めて様式化されていると同時に、それを捉える画面設計も緻密に計算されたもので、他の場面の演出と極めて異質であり、ここだけ突出している。しかも生徒たちの顔がどれも良い。*1
芝居芝居している感じが鼻についてしょうがない演技陣(特にヒロインの夫役)の中で、河合青葉とその母親役と小説家役の女優にはそうした厭味がなく、映画との調和を生きているように見える。映画は演劇と違い、必ずしも「名演」やら「熱演」を必要としてはいないと思うのだが。
またやや台詞に生硬さが感じられないでもないのだが、よく出来たシナリオだとも思う。ただこの「よく出来た」というのが曲者で、演出も含め、やはりこちらを動揺させてくれるような「新しさ」には残念ながら出会えなかった。私は「新しさ」に遭遇したいがゆえに新人作家の作品を見に劇場に足を運ぶのであって、別に「よく出来た」模範解答など見たくはないのだ。
「即興演技風の芝居」を尊重したためなのだろうか、後半の「本音ゲーム」の場面でもほぼ同じアングル、同じサイズで三人の役者たちがロングテイクで撮られ、カットバックされるのだが、要所要所でもっとサイズを寄ったり引いたり、イマジナリーラインを越えたり越えなかったり、主観に入ったり客観に入ったりして演出にアクセントをつけた方が、さらに効果的なのではなかろうかと思った(それはやりたくなかったということなのか?でも何故?)。*2
先ほどチラッと触れたように、個人的に一番気になったのはヒロインの夫役の演技(台詞の言い回しと表情)なのだが、やはりこの人が喋ると全てが嘘に聞こえてしまい、まあ実際そういうキャラクターを演じているわけだから、それはそれで間違っていないのかもしれないのだが(にしても下手だとは思う)、しかし最後の瞬間の「改心」までもが嘘に見えてしまうのは演出的にダメなのではなかろうか。仮にそれが狙いだとするならば(つまり彼女は彼に騙され続けて生きていく)実にアイロニカルな幕の閉じ方だと思う(そういうものは個人的には見たくない)。また狙いでないとしたら、やはりあれは演出的に失敗で、それは、役者の芝居を撮ることを主眼としているはずのあの映画にあっては致命的なのではなかろうか。またこの偽善者たる彼をみつめる作者の眼差しに残酷さが足りないので、喜劇的な場面があまり活きていないように思われた。
この映画で確かに「うまい」と言いたくなるような瞬間はいくつかあったのだが、それを「うまい」と見るものに意識させないことの方が映画的には遥かに上品だと思う。ともあれ力作であることは確かなので、だからこそこうしてこの作品に対する疑問をここまで長々と表明してきたわけだ。この作品は「盲目性」についての映画だが、世間の風評を耳にすると、どうやら見る者を盲目にしてしまう力がこの映画にはあるようだ。

*1:なお『A Bao A Qu』(加藤直輝)で外部からの脅威にさらされた河合青葉が暴力について語るこの場面は、件の作品に対する返答のようで興味深かった。id:hj3s-kzu:20070519を参照のこと。

*2:それが「現代映画」なのだ、という声がどこからか聞こえてきそうだが、この作品は「現代映画」というよりはむしろ「現代風の映画」である。