TOCHKA

a)『TOCHKA』(松村浩行)◎
北海道の平原に打ち捨てられたトーチカの中に身を潜め、銃眼から外に向けてカメラを構える若い女(藤田陽子)の前に、まるで『ペイルライダー』(クリント・イーストウッド)の「牧師(プリーチャー)」のごとく、地平線の彼方からくたびれたコートに身を包み、大きなトランクを手にした中年男(菅田俊)がゆらゆらと亡霊のように現れる。冒頭からここまでほぼ十分近く映画は、点在するトーチカに女が入り、その銃眼からの光景と彼女が手にしたスライド写真とを見比べる様子をある種の事務作業のように黙々としかし正確に提示しており、むろんその間に言葉が発せられることはなく、私たちが耳にするのは大地を吹きすさぶ風音と彼女が立てる物音だけである。しかしこの男の出現により、堰を切ったようにこの作品は台詞劇のような様相を見せ始め、二人の間に緊迫感に溢れた視線と言葉の応酬がなされることになる。それらは時に交わり、時にすれ違う。そこでの視線と台詞の演出はこれまで日本映画が持ち得なかった知性的なものである(あえて先例をあげるなら、筒井武文が指摘するように、吉田喜重くらいしか思い浮かばない)。大地に根が生えたように厳密に固定されたキャメラが提示する二人のやりとりは、まさに「切り返し(champ-contrechamp)」という技法が本来持っていたはずの根源的な力をまざまざと私たちに見せつける。ではそこでどのようなやりとりがなされるのか。それは実際に自分の目と耳で確かめるに如くはない。ただここで問題になっているのが「反復」であることには注意しておきたい。女は亡くなった恋人の、男は亡くなった父親の、かつて身を置いたこの狭い場所に自らの身体を据えてみるために、北の果てまでわざわざやってきたのだが、そこで反復される経験とはあくまで死へと傾斜していく危険なものである。
思えばヌーヴェル・ヴァーグ的な祝祭感に満ちた処女短編『よろこび』やブレヒトの戯曲を元にした傑作『YESMAN/NOMAN/MORE YESMAN』*1を撮ったこの映画作家の登場人物たちにとって、生きるとは自らが囚われていた閉域からより開かれた空間に向けて自らを解き放つことと同義であり、一度、そうした外気に触れてしまった彼らにとって慣れ親しんでいた閉域としての「家」(home)に戻ることはもはや不可能なのである(We Can't Go Home Again!)。その際に必ずと言っていいほど「斜面」が画面に現れていたことは注目に値する。『よろこび』の不良青年たちとヒロインが歓声をあげながら駆け下りて行く斜面や、『YESMAN/NOMAN/MORE YESMAN』のクライマックスで自らの運命を毅然と自らの手で選択する少年が立つ斜面がそうである。しかしそうした「斜面の作家」としての自らの資質とはきっぱり手を切り、『TOCHKA』における松村浩行は海を臨むなだらかな平原にキャメラを据えてみる。「斜面の作家」から「大地の作家」へ。この移行に伴い、閉域から解放された空間へと向かう彼の想像力のあり方も必然的に変容を強いられる。この作品においては、誰もが解放された空間から閉域へと自らを幽閉しようとし、その身振りが反復されるのだ。それが最高点に達するのが、この作品のクライマックスを構成する十五分以上にもわたる、それを見るものを窒息させるような力強いシークエンス=ショットなのだが、そこで私たちは反復を累乗した果てに現れる映画的な力の圧倒的な現前に立ち会うことになる。それはあらゆる生を引き込むような危険なブラックホールである。しかしそれまで大地に根を張っていたようなキャメラが、大地をふと離れ、音もなく宙を滑走し始める瞬間、私たちは仮死状態から生へと緩やかに回帰し、再び世界との紐帯を取り戻すのだ。
(追記)映画作家自身による素晴らしい作品解説が以下で読める。
http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20080714

*1:http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20080618/p3