a)『アルテミスの膝』(ジャン=マリー・ストローブ)◎
b)『ジャン・ブリカールの道程』(ストローブ=ユイレ)◎
c)『忘れてしまう前に』(ジャック・ノロ)○
ストローブの新作を見たいがために一時間近く前に日仏に行くが、それでも楽勝だったので拍子抜けする。じきにアテネで字幕付きで見られるとはいえ、こんなこと初めてでは。上映後、フィトゥッシくん(今回も助監督を務めた)のQ&Aがあり、その気もなかったので何も考えず油断していたら、通訳の藤原くんと目が合ってしまい、「クズウくん、何か質問ないの」といきなり一発目にふられたので(ふるなよ)大いに動揺してしまい、しょうもないことを口走ってしまったような気が。*1次に質問された蓮實先生(私よりさらに早くチケットを求めに来られていて、畏敬の念を新たにする)は「順撮りなのか」「ガンマイクしか使わなかったのか」というさすがに本質を衝いた質問で、フィトゥッシくんの答えはいずれもウィ(実際にはもっと詳しく説明していたが略)。最後に坂本さんにうながされ、フィトゥッシくんがユイレの最期についてのとてもいい話をし、また「魂」についてのいかにも唯物論的なコメントを補足して、皆しんみりとして終了。*2客席も結構空いていたが、まあ逆に言えば、本当にストローブ(とユイレ)の好きな人たちだけが集まって(たぶん)、ユイレを偲ぶ会みたいになったが、それはそれでとってもいい感じだったのではなかろうか。
「順撮り」の話に衝撃を受けたので(というのも『アルテミスの膝』*3の前半の対話場面は4パターンの画面サイズ(ほぼ同軸上)の寄り/引きだけからなっている)*4、ロビーにいたフィトゥッシくんに、藤原くんに通訳してもらいながら、これについてさらに突っ込んで尋ね、さらに衝撃を深めたのだが、例えば引きのショットAと寄りのショットBがあったとして、コンテがA1→B1→A2→B2……と続く場合(実際そうなっているのだが)、A1にフレーミングして撮った後、(中抜きせずに)B1にフレーミングして撮り、さらにA2に再フレーミングして撮り……という作業を延々繰り返しているのだそうな。もっともキャメラ位置(ストローブ言うところの「戦略点」)はこのシーンでは一点に固定されているので、レンズを換えればいいだけなのだが、それにしても……。まさにストローブにとって映画作りとは「労働」に他ならないことを思い感動する(もっとも実際に労働しているのはレナート・ベルタやルプチャンスキーだけどね)。*5ちなみにこの場面のレンズはズームが一本と中玉が一本とのこと(ただしズーミングはない)。
やはりストローブ=ユイレをこよなく愛する友人と軽くお茶してから、ノロを見に行くと盛況だったのでこれまた驚く。今回は『ふたつの顔をもつ女』ほどのビザールな傑作ではないものの、全編に漂う厳しい倫理性(とユーモア)に感銘を受ける。
帰りに新しくオープンした新宿のブックファーストへ。広い。あと真木よう子のデキ婚のニュースに深い衝撃を受ける。

*1:『アルテミスの膝』に出てくる石碑はパルチザンをたたえたものだそうな。

*2:あとフィトゥッシくんが言っていたことでとても印象的だったのは、本来、白黒映画のプリントを現像するときは、現像液をキチンと洗い流さないと色ムラが出てしまうのだが、『ジャン・ブリカールの道程』のラストショットがまさにそうなっていて、これをストローブは「今日のフランスの現像所では白黒映画の現像が不可能であることの証として」そのままにしておいたとのこと。

*3:クレジットがストローブ単独になっていて、改めてユイレの不在を強く意識させられた。

*4:見直したら5パターンだった。もっともそのうちの2つは奥右手の人物の膝上か膝下かという微妙なサイズの違いなのだが。

*5:『アルテミスの膝』がベルタで、『ジャン・ブリカールの道程』がルプチャンスキー。