映画新年会@アテネ

a)『魔眼』(伊藤淳)
b)『大拳銃』(大畑創)
c)『×(かける)4』(万田邦敏
『魔眼』は、主観と客観の使い分けが上手くいっていない。ヒロインが「魔眼」で母と妹を見ると(主観)、彼らがゾンビ化して見えるというのはまあいいとして(よくもないのだが)、そこからポンとキャメラが引いて、ヒロインの背後から家族の食卓の情景に切り替わった時に、そのまま血まみれの母と妹が見える(客観)というショットは画面左が妙に空いているのと相まって、とっても間が抜けた印象を受ける。真面目に怪奇物をやりたかったのか、コメディテイストを狙っているのか、いずれにしても失敗しているような……。また冒頭の謎の男が母を殴る時のパンチの繰り出し方に見られるごとく、演技、カット割の両面において、アクション演出が全体的にまずい。ラストはテレビシリーズの第一話を見せられているような感じを受けた。なので「まだわからないのか?」と最後の台詞で言われても「わかりません」としか正直答えられん。いや、実は「わかる」のだが、でもそれってクリシェだからだよね……?
『大拳銃』は、暴発する拳銃とそうでない拳銃の差異というのが、視覚的にではなく、聴覚的に示されるので、主人公の兄弟が依頼人たちと拳銃を試射するシーンで、兄が暴発する拳銃をわざと依頼人に渡すのだが、それを察した依頼人が弟にそれを手渡して引き金を引かせようとするというサスペンスがあまり活きてこない。これが暴発する拳銃であるというのが、兄のクロースアップと拳銃との切り返しで示されているようなのだが、前述したように外見では暴発するものとしないものの区別がつかないので、事後的に何となくそうだろうというのはわかるが(弟も怯えているし)、ここはもうひと工夫あってもよかったのではないか。また差異が聴覚的に示されるといっても、カチカチという音を聞いて登場人物が何かを納得するという芝居があるだけで、その音を聞いても観客としては何かを理解するわけではない(というのも正常な状態の音というのを予め聞いてはいないので)。また例のサスペンス場面だが、もっとカットを割って、弟の方に寄った画もあってもよかったのでは。なお二回ほど、兄の片目のクロースアップがインサートされるシーンがあったが、このカットはいらないと思う(前後のショットと画調も合ってないし)。
『×(かける)4』は、さすがキャメラ位置とカット割が全編にわたって的確。同じ条件下(予算、期間、スタッフ)で、これだけのクオリティを達成できる監督はあまり思い浮かばない。高校生の四人の男女の恋愛模様を四通りの可能な組み合わせで提示し(だから「×(かける)4」)、またその男女が一緒にいるさまを別の一人(男あるいは女)が目撃するという規則が提示されるわけだが、それは校舎にいる場合に限られており、二つの「密室」においては文字通り「二人だけの世界」が現れる(そのうち最も濃密なのは女と女の組み合わせである!)。これら四つの組み合わせは結果的に全て痛ましい結果に終わるのだが、その意味ではこの作品のタイトルは、登場人物のロッカーに書かれた大きな×(バツ)印のように、これから四人全員に×をしていくと冒頭から宣言しているのかもしれない。最後の彼らの台詞(とラストショット)には胸が締め付けられた。
上映後、アテネの映画新年会。知人が数人しか来ていなかった上に、彼ら全員が社交に励んでいたので、社交の苦手な私はアルコールをちびちび補給しながら壁の花と化して大半の時間を耐える。最後になってようやく、ロジエの未公開作を配給しようと計画中(!!!)の池田雄二さんや、『へばの』*1が今月末公開の木村文洋くんと話が出来たのでよかった。金欠ゆえ二次会には行かず。
また羽田澄子監督のスピーチを聞いて『嗚呼 満蒙開拓団』は絶対に見なければと決意。