関西訪問記 その2

東京では本日が「桃まつり」の最終日なので、桃娘に大阪より愛をこめて、告知文などをしたためてから仮眠。起きたらホテルの朝食タイムを過ぎていたので、梅田のデパ地下でお好み焼きと焼きそばのセットを食す。価格表に481円と表記してあったので、その通りにお金を出すと480円だと言われる。頭の上を「?」が三つ浮かぶ。これって関西の商習慣なのだろうか。
地下鉄に乗って九条まで行く。私は旅先で地下鉄に乗るのが好きで、乗るとようやく異郷に来た感じがする。ところで大阪市内を地下鉄で巡るなら一日乗車券を買うとお得なのだが、さらに毎週金曜日にはノーマイカーフリーチケットが発売され、これならたった600円で一日何回も乗り降りできる。
さて本日は見たいプログラムがシネ・ヌーヴォXに集中していたので、そこに一日中腰を据える。『三分映画』(岡本章裕ほか)はカップラーメンをお題にしたオムニバス映画で、第三話の図書館で勉強をしていた女の子の手にしたエンピツが突然、カップめん用の割り箸に変わるというところだけ面白かった。続いて『イミテーション・オブ・サーク』『サンドラブロックスのフェイク/人生』『電気羊の…。』(千浦僚)は、冒頭の『風と共に散る』(サーク)のオープニングを再現した(?)シーンで、文字通りイエローキャブ役の黄色いジャージに身を包んで変な走り方をする無表情で長島良江(「『それを何と呼ぶ?』)と、ロック・ハドソン役の中矢名男人(『out of our tree』)のショットだけ良かった。「ダグラス・サーク入門」という意図よりは、作家の自意識の方が前面に出てしまった印象を受けるし、作品としてもサークの抜粋によりかかりすぎではないだろうか。『サンドラブロックスのフェイク/人生』はこの作家の最良の作品。自身の少々複雑な生い立ちを再現映像で語ったパートと「母性思慕」を巡る『成龍拳』や『グリフターズ』からの引用(とそれについての考察)が見事な調和をなしていて、最後には感動を誘う。では引用抜きでこの作家が映画を撮ったらどうなるかというのが『電気羊の…。』である。もっとも文学的引用はあるのだが(ディック…)。他の作品にも見られる欠点である「ゆるい」映像が、この作品では全編を占めているので、その停滞した時間感覚(それは主題に即したものではあるのだが)と相まって見るのが少しつらかった。
『花の鼓』『背骨のパトス』(松岡奈緒美)は、「産む」ことを巡るセルフ・ドキュメンタリー。つまり「子宮系」映画。時折挟まれる作家自身によるナレーションの言葉が、そこで描かれている(作家自身にとっては)切実であるはずの出来事に反して、あまりにも薄っぺらで紋切り型だったことに驚いた。仮にも映画作家であるなら、こうした言葉によって安易に回収されないような出来事を映像と音響によって描くべきなのではないだろうか。『花の鼓』における作家自身が自らの体験を語るクロースアップの長回しにはそうした言葉たちに拮抗するものがまだ多少は垣間みられたが、『背骨のパトス』に到っては作中でオフの声が作家自身に対して投げかける「これってただのホームビデオちゃう?」という根本的な疑問を覆すものはなかった(たとえその疑問を導入することで作家がある種の自己批評性を作中に導入しようと企図したとしても)。クライマックの出産シーンも、一昨年のヤマガタで河瀬直美の作品で同様のシーンを見てしまった後では、単なるその亜流のように見えてしまうし、しかも決定的な瞬間をキャメラに収めていないことが映画作家としての決定的な弱さとして露呈してしまっている(とはいえ河瀬のように見せればいいというものでもない)。この作品を見ながらぼんやり考えたのは、男性と女性の映画作家の興味の違いで、男性作家がキャメラを向けるのは「セックスまで」の出来事であるのに対し、女性作家が関心を示すのは「セックスから」の出来事なのではないかということだった。これは女性が「産む性」であることと関係があるはずだが、優れた映画作家というのはそうした境界を易々と越えてしまうこともまた事実である。
続いて楽しみにしていた「思考ノ喇叭社」による短編集。『miminari』(板倉善之)は冒頭数カット目の、主人公が養豚場で出会う同僚の男のガムを噛む口元のクロースアップのインサートを見た瞬間、いやな予感がした。とはいえ同僚の男が屍体としてなって豚小屋に横たわっているところまでは何とか見られたが、主人公がその屍体の顔に被された覆いを取る瞬間になぜかその顔が何だかよく分からない風にCG処理されていたのにげんなりした。ここは死に顔を一瞬でもいいからキチンと見せるべきではないだろうか。後半は妄想系の展開になり、最後に巨大昆虫のCG映像を見せられ、さらにがっかり。「耳鳴り」という主題にもう少しちゃんと向き合って欲しかった。『小さなネズミの行列が…』(松野泉)もやはり主人公が坂道を上がって行くと着ぐるみを着たキャラが降りてきて「シュールな」(?)展開になるところでがっかりした。深夜ドラマみたいな両作品に比べ(比べるのも申し訳ないが)、『罠を跳び越える女』(桝井孝則)の志の高さは際立っていた(この姿勢は今回私が見ることになる20プログラム中でも群を抜くものだった)。彼もやはりストローブ=ユイレに影響を受けた作家の系譜に属すると思うのだが、フレーミングや編集の間合いなど、彼らの影響を完全に消化して自家薬籠中のものとしていることがうかがえる。優れた映画とはスクリーンで見てこそ、その真価を発揮できるものだし、二度、三度の観賞に耐えうるものであるはずだが、これはそうした作品だと言えるだろう(実際、私は以前この作品をDVDで見たが、今回の上映の方がよりよく思えた)。ヒロインの台詞回しに若干難があるが、次回作ではそうした欠点も修正されることだろう。また最後の風景ショットの長回しはボートがインするタイミングがあと一、二分早ければもっと良くなったように思う。またトークで作家自身の口から、作品の最初に映っている逆光で撮られた窓が、この作品の製作資金を得る為に彼が働いていた職場の窓であることを聞いて大いに感銘を受けた。処女作(そう、これは彼の初めての作品だ)のファーストカットをこのようなショットで始めることなど誰にでもできることではない。
上映後、トークゲストで来ていた唐津くんと去年の京都以来、再会し、桝井くんを囲んで近所の喫茶店でお茶。詩人の安川奈緒さん、音楽家の三上良太さん、女優の宮川ひろみさんと知り合う。宮川さんの出演した『大拳銃』(大畑創)は以前、アテネの映画新年会で見たことがあったのだが、本人に「え、どこに出ていました?」と失礼なことを尋ねてしまった。『大拳銃』には女性は一人しか出てこない(主人公の妻役)ので、考えたら分かりそうなものなのだが、スクリーンに映っていた彼女と実物の彼女のイメージが違っていたので、すぐには気づかなかった。まあ本人曰く、その方がむしろ嬉しい、ということで許してもらう。
本日楽しみにしていたもう一本である『赤い束縛』(唐津正樹)を、帰ってしまった安川さん以外の残りの皆で見に行く。最初の三分の一くらいまでは主人公の「チャラ男」に対して観客としてどういうスタンスで接すればいいのか大いに困惑させられたが、中盤以降の展開で、それが作家のしたたかな計算によるものだと分かり引き込まれた。演出力が光る作品。ヒロインの平原夕馨は実に魅力的。実はこの女優の出た作品をやはり映画美学校映画祭で見たことがあったのを後で知らされたのだが、全く覚えてなかった(記憶障害?)。
上映後、皆で中崎町に移動し、富岡さんのいきつけの呑み屋で大いに盛り上がる。ヘリドロさんも自転車で駆けつけ途中から参加してくれたのだが(実は初対面)、すぐ隣にいた柴田剛さんの語り口の面白さに引きつけられてしまい、あまりヘリドロさんと話せなかった。柴田さんと宮川さんとTIFFの武山さんのゆうばり話が実に楽しそうだったので、私もゆうばり行けば良かったと思った(というか次回はぜひ行きたい)。二次会は商店街のさらに奥にあるバーへ流れ、不思議な感じの空間で朝六時まで映画談義に花が咲く。ここでも話題の中心は『へばの』(木村文洋)であった。作品の評価は別として今年最も話題をさらった日本映画であることは間違いないだろう。私たちがこの作品の駄目なところを挙げると(監督本人に直接話したいのでここではそれについては書かない)、あるインディペンデント監督が「でもそれは「自主映画」なんだからしょうがないのでは」というような発言をしたので、私はスクリーンに映されるものは「映画」として考えているのであって、それが「自主」だろうが「商業」だろうが関係ないと反論。実際、優れた「自主映画」はそうした区別を無効にするような強靭さを持っていることは確かだろう。逆に「自主だから」という甘え(それは作り手側の都合であって、観客には関係がない)が「自主映画」を駄目にしているのではなかろうか。やはり志だけは高くありたいと個人的には思う*1。とはいうものの『へばの』の作家の上映活動に対する熱意はあらゆるインディペンデント作家が見習うべきところであることもまた確か。

*1:ついでに言うと「テルテルポーズ」第三号に収められた万田邦敏さんと桃娘たちの座談会の中で、8ミリ時代から自分の作品はいつカンヌで上映されてもおかしくないと思っていたという主旨の塩田明彦さんの発言を長島さんが引用し、それに対し万田さんが、そう考える塩田がおかしい、という旨の返答をして笑い話になっている。ここで塩田さんの名誉のために書いておくと、その発言を私もその場で聞いていたが、塩田さんの言いたかったことは正しくは、自分の作品はいつカンヌで上映されてもおかしくないという気構えで撮っていた、ただし実際にそれがそういうものになっているかどうかは別の話である、というものだった。要は志の問題であり、それには私も完全に同意するし、私見では現在のところ、塩田明彦の最高傑作は『優しい娘』という8ミリ作品である。