a)『青少年のための映画入門』『疱瘡譚』『マルドロールの歌』『ローラ』『審判』(寺山修司)△
b)『プッチーニと娘』(パオロ・ベンヴェヌーティ)◎
前売券が完売してしまったので、当日券を手に入れるべく、早起きして午前九時半に会場に到着。すでに長蛇の列。売り切れたらやだなーと不安に駆られつつ列に並ぶこと三十分、見事チケットをゲット。まだ上映まで六時間もあるので(!)、渋谷に移動し、寺山の「実験映画集1」を。今では古びてしまったその「前衛」っぷりを「牧歌的」だなー(『ローラ』の「通り抜け」とか)、と思いつつ眺めているうちはよかったのだが、『審判』のラストの「釘打ち」にはホント腹が立った。あれは観客が映画に「参加している」のではなく「参加させられている」のだ。それを自覚せずに粛々としてこの儀式に自発的に「参加している」観客たちはマゾヒストなんじゃなかろうか。あの時は作り手の傲慢さのみ感じ、寺山を嫌いになりかけた。なおこれらの短編群を見て思ったのは、演劇畑出身の寺山は映画が本質的に抱える「平面性」に耐えきれなかったのではないかという疑問だ。しかし「平面性」こそ、映画の抱える内在的な条件であり、それに耐えられないものは優れた映画作家たりえないだろう。もっとも他の作品も見てみないことには何とも言えないが。
つらつらそんなことを考えながら有楽町へ。おそらく観客席の九割を占めたはずのプッチーニ・ファンを呆然とさせたに違いないベンヴェヌーティの新作は、オペラに対する映画の圧倒的な勝利を高らかに告げる傑作だった。上映後、首を傾げて会場を後にする中高年たちを見ながら、ざまーみろ、と内心つぶやく。会場でMくんを見かけたので、帰りにマック。いろいろ難儀な話を聞く。
そこから再び渋谷に移動し、歩いて駒場まで。アゴラ劇場で「キレなかった14才♥りたーんず」を。今日は篠田千明演出の『アントン、猫、クリ』。猫一匹(ただしそれは舞台には登場しない)と一組の男女だけでここまで世界が描けることに感銘を受ける。クライマックスの狂躁の後の静寂で呟かれる「ケータイ」の一語は冒頭で聞かれた同じ言葉ではもはやありえない。そのことに涙する。会場に桃娘の粟津さんが来ていたので、上演後、シノダさん、ちからさんらと一緒にビール片手に劇場前でだべる。楽屋でパスタを御馳走になってから帰る。