現在の日本の映画批評の退屈さというのは、端的に言って書き手が「安全圏からしか語っていない」という点に求められると思う。彼らの多くはすでに評価の定まったものだけ見て、それについてあれこれ書くのが「批評」だと勘違いしているみたいだし、そこにあるのは要するに野心の不在だ。批評家の重要な役割のひとつに「同時代の知られざる才能を発見する」というのがあるはずなのだが、「映画批評家」を名乗るものの大半は上述のような次第なので、そうしたことはもはや望むべくもない。ここのところをキチンと認識しないと、いくら外面だけ「リニューアル」しても、根本のところは解決されない。「映画批評誌」を名乗る媒体の問題はまさにそこにある。だから毎号、定番の固有名がずらりと表紙に並ぶという事態になるのだ。そんなものを読んでも何の刺激もない(だから私は買わないし読まない)。
例えば日本の「映画批評家」たちが瀬田なつきを「発見」したのはついこの間だし(私に言わせれば七年遅い)、彼女よりさらに早く映画作家としてスタートした松村浩行や遠山智子といった才能が「発見」されるのはさらに後になるだろう(彼らに到っては十年遅い!)。彼らの処女作は短期間とはいえ、ユーロスペースというれっきとした商業上映施設で何年も前に一般公開されているのだから、それらを「どうせ映画学校の生徒が作った作品でしょ」という偏見から見に行かないのは「映画批評家」としての役割放棄以外の何物でもない。*1

a)『離婚しない女』(神代辰巳)◎
b)『もどり川』(神代辰巳)◎
c)『Elephant Love』(野原位)△
『Elephant Love』はテンポの悪さに何度も席を立ちたくなった。十五分くらい長いと思う。またこれだけ美女が揃っているのに、彼女たちの肌に当てられる光があまりにも粗雑すぎやしないだろうか(特に室内シーンでの照明は壊滅的)。とはいえラストの佐野和宏の登場にはハッとさせられた。彼と筒井真理子のやりとりはこの映画の中でもっとも充実したシーンだと思うが(『ゲアトルーズ』(ドライヤー)のラストが下敷き?)、ラストショットのカット尻から暗転へのタイミングが早すぎ。もう少し余韻を持たせた方がいいと思うし、もうワンショットくらい足りないようにも思う。

*1:なお他にも「発見」されるべき才能をid:hj3s-kzu:20051003にあげておいたので参照のこと。