a)『オルエットの方へ』(ジャック・ロジェ)◎
b)『太陽の墓場』(大島渚)◎
c)『愛と希望の街』(大島渚)◎
来春開催されるジャック・ロジェのレトロスペクティヴを企画したIさんに『オルエットの方へ』の字幕付きニュープリントの初号試写に呼んでいただいたので、台風にも負けず、珍しく早起きして五反田のIMAGICAへ(でもちょっと遅刻したので大崎駅からタクる)。カワイイ女の子三人がキャーキャー騒いでいるだけで一本映画を撮ってしまう(まあ、それだけじゃないんだけど)ロジェはやはり過激で凄いなーと感嘆すると同時に、こういう現場、楽しそうで実に羨ましいと思った(機会があれば一生に一度くらい経験してみたい)。ヨットのシーンは、ホントにスタッフ・キャストは危険に晒されたんじゃないかと思われるほどの迫力。
終わってから打ち合わせも兼ねて、Iさんと銀座まで行き、一緒に久方ぶりの大島を見直す。実はDVDもほとんど自宅にあったりするのだが、『愛のコリーダ』以外はなかなか見始めるまでに気力を必要とするのは、たぶん大島がいわゆる「映画的な快楽」に背を向けている作家だからなのだけれど、にもかかわらず見るとやはり感嘆してしまう。作品の持つスキャンダラスな問題性が目につきやすいためか、その演出力について吉田喜重のように論じられることが大島の場合ほとんどないのだが、『太陽の墓場』ひとつを取って見ても、やはりその圧倒的な演出力というものは画面からびんびん感じられるわけで(ちなみにこの時、大島は28歳)、当たり前だが、少なくともここまでの実力を持った映画作家は不幸にして今の日本には一人もいないだろう(なので『御法度』の時、あの凄さに反応する人が少なかったのが不思議)。これはおそらく単に個人の才能だけの問題ではなく(大島ほどの才能の持ち主なら数人はいるかもしれない)、当時の大島を支えていた物質的な条件(贅沢な演技陣を含め)が今の映画作家からは奪われているという問題の方が大きいと思われる。デビューして間もない頃の作品なのに何で昔の人はこんなに上手いのだろう(続けて見たせいで『愛と希望の街』の方は新人作家らしい初々しさが目についたが)と思うにつけ、やはり脈々と受け継がれてきたメチエというものは、本人がどんなにそれに反逆しようと、大島のような映画作家にすらベースとして染み付いているわけで、その伝承のシステムの崩壊によって失われてしまったものの大きさについて考えさせられるとともに、それを一から個々に自分で発見していかざるを得ない今日の映画作家の困難についても考えさせられた。
帰りに軽く呑み。