西山ゼミとの対話 その1

映画美学校映画祭2009で上映された『新・霊験亀山鉾(タートルマウンテン)』(研究科西山ゼミ)について私が書いた評(id:hj3s-kzu:20090905)をめぐって、ここ一ヶ月近く西山ゼミの梶原さん、次いで西山洋市さんとメールのやり取りをしていたのだが(実はまだ続行中)、とりあえず梶原さんとのやり取りをここに公開する。なおブログでの掲載許可についての事務的な連絡などは割愛した他、文章として読みやすいようにメールの改行をこちらの方で整形させてもらった。西山さんとの現時点までのやり取りはヤマガタ日記の後に掲載予定なのでしばらくお待ちを。

はじめまして、西山ゼミに所属している梶原と申します。
今回上映された、新・霊験亀山鉾にもスタッフとして参加しています。
ブログへの書き込みの仕方がわからなかったので、メールにて失礼します。

あの作品は、西山ゼミ皆で作った作品です。
「作者」という言葉が使われていますが、今回に関しては、そういった線引きはなかった、もしくは、あえて無くそうということで撮られたもののような気がしています。
これは僕の実感としてなので、西山さんやほかのメンバーの意見を代表しているわけではないのですが、個人的な作品でなかったというのは確かだと思います。
限られた時間で撮影を進めるためにも、準備段階から脚本を担当した人、演出を担当した人はその場その場ではいましたが、西山さんを中心として集まったメンバーで映画を作った。皆で考えながら作ったという感じです。
なんのために作ったのか?
一つは、皆で演出とはなにかを考え、映画を作る力を鍛えていくために。もう一つは映画祭に出品し、お客さんに作品を見て楽しんでもらう、という2点が目的として撮られた映画だったというのが僕の理解です。

このブログでもっと評価してほしい、とかいっているのではなく、「オリジナル」とか「コピー」といった言葉が使われていることに対して、なにか誤解があるのではないかと思いメールしました。

梶原

梶原さま

メールありがとうございます。
「作者」が単数であろうと複数であろうとそんなことはどうでもいいのです。
私が問題にしたかったのは、あの文章をよく読めばわかるように、ではなぜそうした複数の人の手を経た、言い換えれば集団製作という形態を取ることによってある種の匿名性を目指したはずの作品が、「西山洋市」というワンショット見ればすぐにその人だと分かるような文体を持った映画作家の作品にああも似通ってしまうのかということです。
もちろん当事者たちが西山さんの作品に似せようとあの作品を撮ったなどとは私も考えていません。しかし出来上がったものは明らかに西山さんの作品そっくりですし(もちろん違うところもありますが、似ているところの方が目立ちます)、作り手たちがそのことに関して無自覚なのは、あまりにも楽天的すぎやしないでしょうか。
もし私の言うことが納得できない場合は、これまで西山ゼミで過去に作られた作品を何本か御覧になるといいと思います。それらと今回の作品を比較することによって私の言いたいことが分かってもらえると思うのですが。
映画祭に出品されている以上、私は観客としてあの映画を一個の「作品」として見ました。「実習」として見たわけではありません。ゼミの内部事情は観客にとって、作品の評価に関係ないはずです。したがって、私はあの作品が私の知っている西山作品に余りによく似ていたので、率直に感想を述べた訳です。
演出を学ぶということは、対象に対するアプローチの仕方の一つを学ぶということで、文体を真似ることではないはずです。学んだ者は、それを自分なりに消化して自分なりのやり方を工夫して付け加える必要があります。特に手本とする対象が個性的な文体の持ち主である場合は、物真似に終わってしまわないように常に警戒する必要があります。例えば小津やゴダールヒッチコックの真似をしたら、立ちどころに見破られてしまうことでしょう(ちなみに真似ても誰にも咎められないのは古典的ハリウッド映画だけだと思います)。あなたも映画作家を目指しているならば、このことには自覚的であるべきでしょう。

くずう

返信ありがとうございます。

真似という表現は適切なのでしょうか?
自分が今回メールを送ったのは、新霊験亀山鉾について、葛生さんにそこだけを取り上げて書かれたことに疑問を感じたからなのです。
西山さんは一講師として別のことを言われるのかもしれませんが、私としては、西山さんは単にカメラマンとしてだけでなく、葛生さんの仰る「作者」の一部に入っているというのが個人的な実感です。

新霊験亀山鉾は、ゼミの講師である西山さんを中心にして作られたものです。
決して西山さんは部外者ではありません。
当然準備段階から、西山さんの意見・アドバイスを受けてこの映画は撮られました。
ゼミの事情は他の方には関係ないでしょうが、私としては、西山さんと一緒に映画を作り、演出その他について勉強させて頂く、といった気構えで望みました。
無自覚とおっしゃられますが、西山さんなしにはこのような作品になっていなかった、というのは十分承知の上です。
あれをゼミ生だけで作った作品だというつもりは全くありません。
また同時に、あれは西山さんが監督をして撮った作品だと言ってしまうことも、違うとは思うのですが。
どうして西山さんの作品にあそこまで似通ってしまうのか、というのは、やはりポイントポイントでの西山さんのアドバイス等が効いているからではないでしょうか。
もっと生徒たち独自のものを出せなかったのか、と言われると、その点についてはまったく自分たちの力不足だと言わざるを得ません。

葛生さんの納得できないのは、その度合いの問題なのでしょうか。
この作品がゼミ生のものなのか、西山さんのものなのか、線引きが曖昧な点についてなのでしょうか。

今回が初参加のため、過去の作品の事情は私は知らないのですが、やはり今回と同じようなゼミ全体で作ったものとしてあったのでしょうか。
その点はゼミ内でよく話し合ってみる必要があるのかもしれません。

梶原

梶原さま

西山さんが「『作者』の一部に入っている」という話は初めて知りました。この「作者」という言葉を、私はブログの当該の文章で「演出家」あるいは「監督」の意味で使っています(「監督」を作品の「作者」とみなすという発想は、「作家主義」的な悪弊だとする批判は今でも割とよくありますが、後述するように、それを乗り越えようとする試みはすでに40年前からありました。つまり「作家主義」同様、それに対する批判も同じ位「古い」ものです)。私はあの作品を二度見ました。クレジットを確認しようと目を凝らしたのですが、あまりにも消えるのが早すぎてキチンと全部読めませんでした。ただ「撮影:西山洋市」とあったのはすぐに目に飛び込んできたのです。誰か他に「監督」としてクレジットされていた人がいたような気がするのですが、私の思い違いでしょうか。もしあなたが「作者」という言葉を別の意味に使っているのだとしたら、ここからの議論はすれ違います(私の「作者」という言葉の使い方はごく一般的なものだと思います)。

ところであなたの疑問に答えるために、映画美学校関係で西山さんがこれまで大なり小なり関わってきた主な作品をいくつかのグループに分けてみましょう(余談ですが、私は『桶屋』のスタッフです)。
1)西山さんが監督で西山ゼミ(あるいは西山クラス)がスタッフの作品(『桶屋』2000、『INAZUMA 稲妻』2005、『死なば諸共』2006、『吸血鬼ハンターの逆襲』2008、『演出実習2009』2009)
2)西山さんが撮影や脚本で関わっているが、別の方が監督した作品(『首切姫彼岸花釣』西山朱子、2008)
3)西山ゼミが監督した作品(『TEACH ME IF YOU CAN!』2003、『暴力わらしべ長者』2006、『西山道 残酷物語』2007)

あなたの説明を読む限り、『新・霊験亀山鉾』はこのうち第二のグループに入るような気がします。ちなみに「西山ゼミ」の監督作である第三のグループは、西山ゼミ生があるお題の元に個々に撮った短編を繋いだオムニバスです(当然、スタッフ、キャストは被っていますし、時に西山さんも出演しています)。チラシで今回の作品が「西山ゼミ」の監督作として表記されているので、例年通りゼミ生が撮ったものとばかり思い込んでいたのが、あのような判断に繋がりました(これまでの西山ゼミの作品は西山さんの作品にはあまり似ていません)。ところがここから話はややこしくなるのですが、第一のグループで撮られた作品でもキチンと「監督:西山洋市」としてクレジットされているのは『INAZUMA 稲妻』までで、『死なば諸共』のクレジットには役割分担が明確に表示されておらず、ただスタッフの名前がずらっと並んでいるだけなのです(その中には井原西鶴まで含まれています)。おそらくそうした役割分担には馴染まないやり方で撮影されたということなのでしょうし(映画美学校が「演出」の授業に力を入れるようになったのは、ここ数年のことなので、『桶屋』と『死なば諸共』以降の作品ではスタッフの関わり方が違うかもしれません)、スタッフのほとんどは西山ゼミ生で占められているので尚更混乱させられますが、にも関わらずこの作品では西山さんが演出をゼミ生に任せたパートはないのではないかと思います。だから、やはり『新・霊験亀山鉾』を考えるには、第二のグループの『首切姫彼岸花釣』と比較して考えるのがいいような気がします。ご存知のように監督の西山朱子さんは西山さんの奥さんですが、西山さんが脚本と撮影を担当し、しかもスタッフ・キャストがこれまでの西山さんの作品とかなり被っているにも関わらず、この作品は西山朱子さんの署名が刻み込まれたものになっていて、断じて西山さんの「コピー」などではありません。もちろん現場で西山さんがアドバイスしている可能性はあるでしょうが、にも関わらず西山朱子さんがキチンと自分なりの演出をしているために「西山朱子」の作品になっているのです(この辺の差異は実際に見て確認して下さい)。一方、残念ながら『新・霊験亀山鉾』にはあまりそうしたものは感じられませんでしたし、それはあなた自身が「どうして西山さんの作品にあそこまで似通ってしまうのか、というのは、やはりポイントポイントでの西山さんのアドバイス等が効いているからではないでしょうか」と書いている通りだからだと思います。なので、あなたの「葛生さんの納得できないのは、その度合いの問題なのでしょうか。この作品がゼミ生のものなのか、西山さんのものなのか、線引きが曖昧な点についてなのでしょうか」という問いかけ(この二つの問いは切り離して考えることが出来ないとは思いますし、あなたに質問されるまでハッキリ切り離して考えてはいなかったのですが)に答えるならば、やはりブログで「周回遅れの西山洋市」とやや辛辣な言い方をしたように、西山さんの作品にしては鋭さが欠けているし、ゼミ生の作品にしてはあまりにも西山さんの作品に似過ぎているという点が納得できないのです。それはあなたがお書きになったように、西山さんが「『作者』の一部に入っている」という曖昧な立場に起因するように思います。これは良く言えば、「作家主義」的な態度を乗り越えるための「集団製作」(あなたがご存知かどうかわかりませんが、1960年代後半から1970年代にかけて、ゴダールを初めとする世界中の映画作家がこれを掲げました。つまり「作家主義」が古いとしても、こちらもそれほど新しい概念ではありえません)と言えないことはないのですが、結果として出来上がったものはどっちつかずなものに終わってしまっている気がします(「演出家」が現場に二人以上いれば当然そうなるでしょう)。
ところで上に挙げた三つのグループのそれぞれ何本かずつをあなたはこれまでご覧になったでしょうか。もしあれば今回の事態がいかに私を驚かせたのかわかってもらえると思うのですが(もしご覧になっていなければ見て下さい。でないとこれまた話は平行線を辿るだけです)。この驚きのために私は「真似」という言葉をつい口走ってしまったのです。ブログの文章の末尾にある「映画教育の可能性/不可能性」という言葉で言いたかったのは、仮にお手本そっくりにできたとしても、それが教育の最終目的ではないだろうということです。

くずう

返信ありがとうございます。

葛生さんの言われる意味で、監督・演出者に西山さんを加えていいのかは、この場で私の判断だけで決めることはできないのですが、準備段階から関わっていた人間の実感としては、西山さんの存在が今回の作品の世界観や演出面にも大きく影響していたというのは確かではないでしょうか。
現場においてどのような仕方で西山さんが関わったか、具体的に言うと、例えば演出担当のメンバーが動きの段取りを皆に説明します。
わかった、じゃあここから録ろうか、といってカメラを決めるときもあれば、なんか段取りじゃなかろうか、と疑問を呈して、生徒に考えさせる場合もありました。
わかった、というときも西山さんのなかではもっと他のアイデアがあったかもしれませんし、決して西山さんが完全に仕切って進んだ現場というわけではないのですが。
それはシナリオ、読み合わせ、リハーサルという準備段階から経てきたことでもあり、ワークショップのような形式で、意見を交してながらの読みあわせやリハーサルが行われました。
セリフの言い方を試行錯誤する、西山さんの考えのもと、そういったやりかた一つ一つを学んでいったわけです。
なので、技術スタッフとして現場の横で見ていたものの実感としては、西山さんは演出に影響を与える存在としてあったというのが正直なところです。
けれど、今回の作品において西山さんが監督だとは自分は思わないし、本人も否定されるとは思います。
そのあたりの線引きについては、これ以上私だけで考えていても答えはでませんので、ゼミに持ち帰って、葛生さんとのやりとり含め、皆で話し合ってみたいとも思います

ちなみにクレジットを確認しましたが、
演出・編集 西山ゼミ
制作 西山ゼミ
となっていました。
アバウトな印象を与えるかもしれませんが、実際に新・霊験亀山鉾は、ゼミ全体で考え作るべく企画された作品であったように思います。

今回の作品が、どれだけ西山さんの演出と似通っていて、その枠内を超えることなく、西山作品を知っているかたには満足していただけないか。
その点は反省も含めて考えるべきものだと思います。
葛生さんに教えていただいた作品のうち、
西山監督作品は「演出実習2009」
ゼミ生監督作は「TEACH ME IF YOU CAN!」「暴力わらしべ長者
はまだ見ておりません。
ゼミ生の「西山道 残酷物語」は前に見たことがあるのですが、それに比べると、確かに「新・霊験亀山鉾」は、人の動きが無駄なく簡潔で整理されている点、カット割り、カメラポジションが的確な点など、もっと他にも要素はあるのでしょうが、ずっと西山さんの作品よりだと思います。
葛生さんが、今回のケースに一番近いと言われる、「首切姫彼岸花釣」は残念ながら見ていないのですが、似たような条件で、別の結果に達した作品として、学ぶべき点が多いように思えます。

以上諸々ふまえて、「新・霊験亀山鉾」はどうなのか。
やはりコピーの域を超えていない、と一蹴されてしまうのかもしれませんが、自分たちとしては、これまでにない悪人を描こう、日本の古典を下敷きにペキンパーの世界をやろう、というチャレンジする精神もあったことはあったのです。
私自身も、もしくは他のゼミ生もそうかもしれませんが、もちろん今回の作品が最終目的という意識はないでしょうし、
次に何をどのように撮るのか、ということを模索するための撮影だったと思います。そして実際に、得たものも多かったと思います。

強引にまとめましたが、とりあえず私個人から言えることは以上になります。


梶原

                  • -

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