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ヤマガタ2009 その4

a)「ナトコのじかん」より
『保健婦の手紙』『病菌はどこにあるか』『大地の子』○
b)『私と運転席の男たち』(スーザン・モーグル)×
c) 『映画『スペクタクルの社会』に関してこれまでになされた毀誉褒貶相半ばする全評価に対する反駁』(ギー・ドゥボール)○
d) 『われわれは夜に彷徨い歩こう、そしてすべてが火で焼き尽くされんことを』(ギー・ドゥボール)○

明日は用事があるので、残念ながら今日の夜行バスで帰らなくてはならない。というわけでナトコとドゥボールで有終の美を飾ることに。
昨日の『いとしき子らのために』があまりにも素晴らしかったために、いやが上にもナトコへの期待は高まるが、そこまでの傑作はなかった。とはいえ、どれも劇映画仕立てで楽しめる。『保健婦の手紙』は都市部と山間部にそれぞれ赴任した同窓の看護婦の往復書簡の形式を取っていて、地方間格差というのはいつの時代にもあるものだなーと思う。スキーを履いて往診に行く姿は大変そう。『病菌はどこにあるか』は、保健所の職員が食中毒の原因を究明するために、患者が発症までに辿った経路(食堂、喫茶店など)を調査するのだが、どこからも病菌は発見されず、実は患者が食べ残しのケーキを包んだハンカチに付いていた微量のネズミのフンが原因だったという凄いオチがつく(タンスの引き出しの隙間に侵入するネズミの再現映像!)。まさに灯台下暗し。食事の前にはキチンと手を洗おう。『大地の子』は北海道開拓民の父の元を尋ねた少年がそこで地元の子供たちと打ち解けていくという心温まる系の話だが、あんまり覚えていない。

その後、フラワイの三浦さんと本日のビトムスキー・インタビューの打ち合わせ。まあ二人ともヒヤリングの方は大丈夫だろうということで通訳なしでやることに。スピーキングには自信がないので、質問の英訳を彼にお願いする。
インタビューまでに中途半端に時間が余ったので、ちょうどその時間に上映していた『私と運転席の男たち』を見に行く。カタログのスチールと解説からたぶん駄目だろうと判断し、もともと見るつもりもなかった作品だが、やっぱり駄目だった(私の映画的勘は当たるのだ)。フェミニスト映画作家(?)の五十代女性が、過去に寝たいろいろな男たちの運転する自動車の助手席に乗って、自分との関係についていろいろインタビューするというホントどうでもいい映画なのだが、撮影・編集もホント酷く、時折インサートされる過去の自作自演作で披露される彼女の裸体も別段美しいわけでもないので、わざわざそんなもの見せるなよと思いつつ、最後まで耐えると、ヒッピーくずれみたいなキモいオジサンとヨリを戻してハッピーエンドという……。お前、ホントええ加減にせえよ。自分探し系の映画ってマジ勘弁して欲しい。この作品をコンペに入れる選考委員の見識を疑う。会場でビトムスキーを発見したので、インタビュー場所までお供しながら、フラハティの偉大さを讃える。何か面白い映画ありましたか、と尋ねると、『Z32』(モグラヴィ)とのお答え。あのー、あなたのインタビューの裏番組なので見られないんですけど……(ナトコを我慢して初回に見ておけばよかった)。
通訳なしというのが事前の不安要因だったのだが、やってみたら結構イケる(三浦さんのおかげ)。あと自主ゼミのKくんにも早速、見習いとして参加してもらう(一日一善)。教師経験が長いだけあって、ビトムスキーの話はとても面白くタメになるもので、インタビューというよりレクチャーを受けている気分になった。たぶんトリュフォーとシャブロルがヒッチコックに最初にインタビューしにいった時もこんな感じだったのだろう(別に自分をトリュフォーやシャブロルになぞらえているわけではない)。予定の一時間はあっという間に楽しく過ぎる。この会見の模様は、そのうちフラワイに載るのでお楽しみに。
というわけで締めのドゥボールへ。特にこれまで述べてきたことに付け加えることはない(というのも『サドのための絶叫』以外、どの作品のコンセプトも同じなので、彼の全作品が一本の長いフィルムのようなもの。たぶん西洋人が初めて小津の後期作品を見た時も同じかもと思うので、もう一度、見てからでないとキチンとしたことは言えないが)。ところで皆さん『われわれは夜に彷徨い歩こう、そしてすべてが火で焼き尽くされんことを』の中にエドガー・G・ウルマーの『裸の夜明け』から2カット引用されていたのをお気づきになられたでしょうか。主人公とヒロインが初めて出会うこの素晴らしい水辺のシーンは私も大好きで、前にウルマー講演した時にもここの抜粋を上映したのだが、この他の素晴らしい引用作品の数々を見るにつけても、ドゥボールってかなり趣味のよいシネフィルだと思うし(あのジーン・ティアニーのクロースアップとか)、「映画に(反)対して」などと斜に構えてみせるのも深く映画に犯されてしまった人の屈折した映画愛の表明のような気がしないでもない。ただ残念ながら、ドゥボールからアイデアをパクったゴダール(『サドのための絶叫』を見るとよくわかる)の方が映画作家としての才能には恵まれていて、ゴダールの作品が一向に古びないのに対し、ドゥボールの作品は再発見されたばかりなのに早くも古色蒼然たる前衛ぶりを呈しているという。まったく時代の徒花のようで実にかわいそう(貶しているわけではない、念のため)。
上映後、駅に向う近道を早足で歩いていると、来月お世話になるシネ・ヌーヴォ御一行様にバッタリ出会い、こんな裏道でとお互い苦笑。帰りのバスはフラワイの中村さんと一緒だった。
今年のヤマガタ日記はこれにて終了。