西山ゼミとの対話 その2

前回(id:hj3s-kzu:20091008)に引き続き、『新・霊験亀山鉾(タートルマウンテン)』(研究科西山ゼミ)について今度は西山洋市さんとのやり取りを以下に掲載する。

葛生君へ

葛生君の「タートルマウンテン」評を読みました。
作品に関わったゼミ生の梶原君がその批評に対して個人的に葛生君に質問のメールを送って葛生君から丁寧な回答をもらっていることも知っています。
今回の葛生君の批評の中心的な話題の半分はゼミの講師としての僕と僕が作った映画に関わることなので、ゼミ生とはまた違う立場にいる僕からの質問や考えを表明しておく必要がどうしてもあると考え、以下、ちょっと長くなりますがメールで文章を送らせてもらいます。
これは本来、直接、葛生君に送ればいいのですが、今現在成り行き上、梶原君が「西山ゼミ」の窓口のような形になっているようなので、回りくどいですが梶原君経由で送らせてもらいます。他意はないので悪しからず。
ということで、この文章はあらかじめゼミ生は全員読んでいます。ゼミ生は僕とはまた違う立ち位置にいるので、違う視点の違う意見や感想を持つ人もいるだろうと思います。

(承前)
「タートルマウンテン」が僕の作品と「人物配置」や「カット割り」や「物語の主題」が似てるということですが、意外でした。具体的にはどこがどう似ているんですか?
似ていることが否定的に捉えられているようなので、僕とゼミ生たちの後学のためにも具体的に指摘してもらえると助かります。
また物語は鶴屋南北の「霊験亀山鉾」の脚色で、シナリオを書いたのはとちかね君ですが、その「主題」は南北のものです。僕もシナリオに意見は言いましたが、最後まで粘ってシナリオを纏めたとちかね君の書いた世界はあくまでも南北の「主題」に沿ったものです。さらにぼくは南北を映画化したことはないので「物語の主題」が僕の映画に似ているはずはないのですが。
それから「面白いところも多々あった」というところも、どこがどのように良かったか具体的に教えてもらえないでしょうか? ゼミ生たちは僕に似ているからダメと言われてがっかりしているところなので、良かったところも指摘してもらえると彼等の励みになると思います。

ぼくの今回の立場が問題になっているようですが、分かりやすく言えば「製作総指揮」みたいなもんですね。あるときにはプロデューサー的な立場で、またあるときにはスタッフの一員として口を挟んだのは、原作鶴屋南北のスピリットに奉仕するのが今回の映画の基本的な、正しい態度であるという考えから、南北の原作の本質はなにかを常に考え、そこからずれて行きそうになったとき見失った道に戻るように示唆しただけです。その程度の発言はまともなプロデューサーやスタッフなら誰でも行っていることです。時に人物の位置を修正したのはカメラマンなら誰でも行う映画作りの一般的な作業に過ぎません。
また、演出のとちかね君が正しく理解していたように、この映画を個人的な作家性の実現のために作るんではなく、映画本来の普遍的な姿に出来る限り近づくために、題材とした南北の世界に出来る限り本質において近づくために、そのことに奉仕するために、僕も一緒に現場と向かい合った。それだけのことです。

おそらく僕が以前作った「死なば諸共」とのジャンル的な類似性が問題になっているのかもしれないので、そのことについて僕の考えを説明しておきます。
時代劇の物語を現代劇の世界で描くのは奇を衒っているわけでも僕の「作家性」でもなくて、描きたいものをお金を掛けずに(というか単にお金がないのですが)映画にするためのひとつの方法で、逆に創造性が刺激されて大胆な表現に繋がるし繋げたいという欲望も生まれました。
もちろんそういうことを試みるのは僕が最初でもなんでもなくてこれまでにも映画に限らず演劇や落語など、さまざまな形でいろいろな試みが為されてきていることを踏まえてやっていることです。
やってみて思ったのはこれは演出的にも世界観としても応用可能だということです。つまり他の時代ネタでもこのような形で映画を作ることは可能だし、しかもいろいろ面白い映画を作れるのではないか。大袈裟に言えば、生産的な「ジャンル」として成り立つのではないかという予感ですね。
僕の奥さんが作った「首切姫彼岸花釣」もだから作家性とかいう以前のジャンルとしての「マゲをつけない時代劇」の一本なんですね。
そういう世界の成立には「作家性」などより「経済性」のほうがはるかに要因として大きいのです。まったく個人的な超低予算の自主製作で時代劇映画を成立させるために「一手段として選び取った世界観」という側面が大きいし、しかも単に映画を成立させるだけでなく、面白い映画にしたい、金を掛けずにそうするためにはどうするべきか、いろいろなことをアイデアとして考え、試す必要もあるんですが、それが映画を面白くするし、作り手と映画に新鮮な驚きをもたらしもするんですね。なおかつうまくいけば観客にある程度のインパクトを与えることもできる。
つまりこれは僕一個人のちっぽけな「作家性」などに留まるものではなく、自主映画の創造的な方法論として、さらには一つのジャンルとして存在しうるものだし、させるべきだと考えました。
「首切姫」はその第2弾目ですが、まだ数が全然足りない。もっともっと数を増やして人にも見てもらわなければならない。
というわけで、ぼくはゼミで生徒に撮ってもらうためにまず「四谷怪談」という企画を出したのですが、同じ頃にとちかね君がたまたま大阪で見た芝居が同じ南北の「霊験亀山鉾」で、そのあらすじを聞かされた僕はすぐにこれもやれると思いましたね。で、当初は「四谷怪談」と「霊験亀山鉾」の二本立てにしよう、客が呼べる、という昔の映画会社みたいな企画で出発したんですが、「四谷怪談」は頓挫して「タートルマウンテン」一本になりました。
というわけで、この映画の製作に野心があったとしたら、その一番はそのような映画をたくさん作って「ジャンル」として成立させ認知されたい、ということですね。そのためにはまず、なんといっても面白くなければならない。
「タートルマウンテン」はかなり面白い出来栄えだとぼくは思います。そもそも原作自体が一般には知られていないとは言え、そのあらすじを聞けば(あらすじは完成した「タートルマウンテン」とほぼ同じです)「映画好き」なら「ああ、これを映画にしたらさぞ面白いだろう!」と必ず思うに違いないピカレスクなアクションものでした。「ダークナイト」もこの南北を参考にしていればもっと面白い映画になったのに・・と思わざる得ません。もちろん面白くないと思う人もいて当然ですが、しかし「タートルマウンテン」は上に書いたごとき「ジャンル」映画なのだから、同じ「ジャンル」の「西山洋市の映画」に似ているというような批判はそれだけでは意味をなさないと思われます。少なくともそれだけでは創造的な意見とは言えないと思います。作品数がごく少ない、いまのところ特殊な「ジャンル」の映画なのだからむしろいろいろな点で似ていて当然かもしれないのだし。逆に、ジャンルの認知度がまだ低すぎる、つまりは作品数が少なすぎるところが問題なのだと思います。ですから批判的な批評でも、こういうジャンルの将来に繋がるような具体的な意見やアイデアが欲しいのです。ゼミでは他にもいろいろ企画の案だけは出ているので、今回の企画が「西山の映画に似ている」というだけで(でもそんなの世間から見れば本当に意味のない、どうでもいいことなんじゃないですか?)批判されてしまうとゼミ生たちの製作意欲に響くし、ひいては僕の新ジャンル確立という野心的計画も停滞してしまって困るのです。

自主製作映画を「作家性」ではなく、「経済性」に規定された「ジャンル」への奉仕として考えることが、貧乏自主製作映画が取るべき映画への現実的なアプローチの重要な一手であり、なおかついま、映画を正しく豊かにするための思想だと考えます。
ですから「タートルマウンテン」を仮に僕が演出をしていたとしてもさして違うものになっていたとは思えない。それは「作家性」の問題を軽く超えて「ジャンル性」と「経済性」からくるものが大きいからです。そして僕が奉仕しようと思ったことととちかね君が奉仕しようとしたものは同じだからです。作り手として大事なのはそこです。作り手の「作家性」などではなく、作品に奉仕できるかどうか。シナリオや、もし原作があるならその原作のスピリットにどれだけ奉仕できるか。繰り返しになりますが、それだけです。それが基本です。

以上の僕の「タートルマウンテン」製作の意図や考え方から言えば、この映画における僕の講師としての態度とは「映画製作者(プロデューサー)としての指揮」とほぼ同義だと言えます。実際のところ、そもそもぼくは「映画学校の講師としての教育」をしようとはしていませんでした。「ひとつのジャンルを立ち上げようとする製作者」としてそのように振舞っていただけですから。しかもかなり真剣でした。そしてそれは成功だったと断言できます。ゼミ生のみならず企画に参加してくれたすべての人たちが本当に良くやってくれて、しかも出来上がった映画としてもかなりの成果を挙げてくれたことに満足しているからです。「タートルマウンテン」も「首切姫彼岸花釣」もいずれまた上映を行いますのでまだみていないみなさんに見ていただきたいと思っています。そして僕たちはこのような映画を出来るだけたくさん作りたいと思っていますし、作るでしょう。

西山洋市

西山さんへ

メールありがとうございます。西山さんの主張はわかりました。

さて西山さんからのご質問にお答えしたいと思うのですが、『タートルマウンテン』を見てから二週間ほど経ってしまったので、「人物配置」や「カット割り」について西山さんの他の作品との比較で具体的にショットごとに類似点を指摘することは、手元にDVDでもあって参照できれば可能かもしれませんが、記憶だけに頼ってそれについて述べることは不正確になるだろうし、その不正確な記述を元にさらにやり取りをしても双方の誤解が広がるだけなのでご勘弁願いたいと思います。ただ一回目に見た時に(当然、クレジットは最後になるまでわからないので)、例年のような(つまり『暴力わらしべ長者』や『西山道 残酷物語』のような)「西山ゼミ作品」のつもりで見始めたら、あまりにも西山作品にそっくりなので驚いた印象があったことは確かです。最後のクレジットで撮影を西山さんが担当したことを知ってようやく合点がいった次第ですが、「果たしてこれでいいのだろうか?」という素朴な感想を見終わった後に持ちました。

この「果たしてこれでいいのだろうか?」の中身については、梶原さんへのメールで詳しく述べた通りですが、今一度、簡単に要約すると、演出を学ぶということがそのお手本に似てしまうという結果に終わってしまっていいのだろうか、ということです。芸術(この言葉は芸道でも芸事でも何でもいいのですが)において何かを学ぶということは、そのお手本に似たものを作ることではなく、それを踏まえて何か別のものを作り出すことだと私は考えていますし、そのためにはお手本に対する批評的な視点を持つことが大事なのではないかと思うのですが、今回の作品は(少なくとも私には)お手本をなぞってはいるが、それに対する批評的な視点が欠けているために、その模倣に終わっている作品のように見えました。これはあくまで私個人の印象に過ぎませんが、そのような印象を与えてしまう可能性をあの作品が持っていることに作り手は自覚的であっていいと思います。

では「物語の主題」について考えてみます。『タートルマウンテン』の物語構造を簡単にまとめてみると、「ある対象Xが、様々な集団間を流通する間に、その集団(内/外)の関係に変化を引き起こす」というものだと思います。この構造はまさに山中貞雄の三本の作品に見られるものです(『百万両の壷』の壷、『河内山宗俊』の遊女、『人情紙風船』の商家のお嬢さん)。ついでに言えば、かつて蓮實重彦山中貞雄論(『山中貞雄全集』所収)で述べたように、映画史におけるその元ネタは『イタリア麦の帽子』(ルネ・クレール)です(この作品自体はそんなに面白くないですが)。今回ではそのXが家宝の拳銃だというわけです。西山さんが南北の「霊験亀山鉾」のあらすじを聞いて、即座に「ああ、これを映画にしたらさぞ面白いだろう!」と思ったのは、この物語が構造的に山中貞雄の作品と同じであり、つまり映画化に適したものだと直観的に感じ取ったからではないでしょうか。もちろん西山さん自身はこれまで、こうした物語構造を持った映画を撮ったことはありません。「仇討ち」といった主題も南北の原作自体から来たものでしょう。しかしゼミ生の主題の選択の仕方に西山さんの影響がないとは必ずしも言えないのではないでしょうか。私がこの作品に「面白さ」を感じたのもまさにこの点です。つまり、南北の復讐談(原作は未読です)を「殺し屋映画」として映画化するという発想(この点では山中よりも大和屋竺に近いかも知れません)、しかも物語構造が山中貞雄と共通するものを多く持っている点です(さらに言えば、この作品が持っているユーモア感覚も山中に通じるところがあると思います)。

ところで私は西山さんの「作家性」を「時代劇の物語を現代劇の世界で描く」点に見出しているわけではありませんし、「奇を衒っている」とも思いません(この方法はストローブ=ユイレが『歴史の授業』でローマ時代の政治家を現代のレポーターがインタビューしにいくというやり方ですでに使っていますし、現代のローマの廃墟でコルネイユの戯曲を映画化した『オトン』もそれに含めてもいいかもしれません)。「描きたいものをお金を掛けずに(というか単にお金がないのですが)映画にするためのひとつの方法で、逆に創造性が刺激されて大胆な表現に繋がるし繋げたいという欲望も生まれ」るという西山さんの考えにも深く共感します。一方、私が西山さん独特の「作家性」だと考えているのは、やはり画面に見られる限りでの「人物配置」や「カット割り」(言い換えれば、演出と編集のリズム)のあり方だと思うのですが、この点については新たに西山洋市論を書かなくてはなりませんし、残念ながら今はその余裕がありません。

西山さんは私が『タートルマウンテン』に感じた西山作品との類似性を「ジャンル」という言葉で解消させようとしていますが、むしろある種の均質的な空間である「ジャンル」の中にこそ、作家相互の「差異」というものが明確に現れるのではないでしょうか。例えば、「西部劇」でも「フィルム・ノワール」でも何でもいいのですが、ジョン・フォードハワード・ホークスアンソニー・マンサミュエル・フラーの撮った西部劇を四本並べてみれば、同じ「西部劇」という名称で括られてはいるものの、それぞれ全く違った肌触りを持った作品であることがわかるし、フリッツ・ラングニコラス・レイの撮ったフィルム・ノワールについても同じことが言えるでしょう(この主張の正しさは、監督名を伏せて、それぞれ同じような場面(例えば襲撃シーン)を生徒に見せるという実験をしてみれば検証できると思います)。この意味で、同じ「マゲをつけない時代劇」という「ジャンル」の一本ではあるにせよ(そして西山さんが脚本・撮影をしたにも関わらず)、『首切姫彼岸花釣』は朱子さんの作品だと言えるし、『タートルマウンテン』との違いもそこにあるのではないでしょうか。私の言う「作家性」とは、画面上に見える次元のものなのです。上に述べた映画作家たちが「作家性」を追求しながら映画を作っていたとは全く思いません(そういう場合もあるでしょうが)。むしろ西山さん同様、「経済性」を重視しながら作品づくりをしていたのではないでしょうか(彼らの多くは「B級映画」の作り手ですし、今のわれわれが作っている映画の規模から考えれば、遥かに大きな予算ではありましょうが、それでも当時の平均から言えば「低予算映画」です)。ここがポイントなのですが、あくまで「作家性」とは「事後的に」(作品ができた後に)見出されるものです。

現在の映画の世界では(特に日本では)、ヨーロッパ的な「作家」概念(例えば、フェリーニとかベルイマンに代表されるような)と50年代に「カイエ・デュ・シネマ」の批評家たちが打ち出した「作家」概念(ホークスやヒッチコックといった、当時はハリウッドの単なる職人監督とみなされていた人たちを、その作品に一貫性が認められる「作家」として称揚する)がしばしば、ごっちゃになっているし(「作家」概念を批判する側も擁護する側も)、当の映画監督自身も両者をごっちゃにしたり、その混同を利用したりしているので混乱や誤解が生じるわけですが、私は「作家性」という言葉を後者の意味(つまり「カイエ」的な)で使っていますし、だから西山さんの主張と矛盾するものだとは考えていません(そう考えるのは、二つの概念の混同があるからです)。映画作家自身が「作家性」について考える必要がないのは、私に言わせれば当然なのです(むしろ本末転倒です)。なぜなら、それは本人の意思とは無関係に否応なく作品に現れるものなのですから。

私の評が、西山さんの「新ジャンル確立という野心的計画」の妨げになってしまったなら、申し訳ないと思いますし、私もそうした「ジャンル」の作品を他にもたくさん見たいと思います。ただスピルバーグが「製作総指揮」として名を連ねている数多くの作品が、全くスピルバーグの作品に似ていないように(ここでの議論には関係ありませんが、「製作総指揮」という言葉は「Executive producer」の訳語で、日本語の語感から連想されるのとは逆に、財政面、法律面で全責任を負うが、映画のクリエイティヴな側面にはタッチしない人を指すのが通常の用法です)、もっと多様な作品を見たいと思いますし、これからそういう作品が生まれてくることを願います。

くずう

葛生君へ

「あまりにも西山作品にそっくり」というほど似ていると言うのなら、またそのことが批判の矛先になっているのなら、やはり似ているところを具体的に指摘してもらいたいんですね。全部とはいいません、典型的な例を2、3挙げてくれれば分かると思うのですが。
しかし、ぼくはそれほど似ていると思いませんし、ぼくが撮影をやったことで似ているとしたら、それは表面的なことで、一番大事な写っているもの、つまり「芝居」は演出や出演をした生徒たちが作ったものですから彼等のものです。

葛生君は演出を「人物配置」と「カット割り」と捉えているようですが(それらの用語は、それ以外の要素も含めて広い意味で使っている言葉なんでしょうか?)、ぼくたちはそれより先に「芝居」の演出があるという考えで、大事なのは写っている(被写体としての)物や事と考えているので、そこからすでに葛生君の考え方や見方とはズレてしまっているようです。これには「卵が先か鶏が先か」みたいなところがあるので、時と場合にもよるし、考え方次第でもあるのですが、しかし芝居の重要性を一番に考え、最終的な「人物配置」や「カット割り」は芝居の演出の付随物と考える(舞台の芝居と違って映画の、映画的な芝居にはカメラポジションが内蔵されているという実感があります。従って現場で作られた芝居をよく見ればカメラポジションはほぼ自動的に確定されます)僕たちとしては葛生君が芝居の演出にまったく触れてくれていないのが残念です。そこを見て欲しいんですが。

そして僕たちのゼミでの中心的な課題も「芝居の演出」であり、それによって作られる人物像や役者の魅力のことをあれこれ考えています。それはシナリオの内容とはまた少し違う(かなり違うと言ってもいいかもしれません。まったく別の「言語」で形作られるものなので)映画の内容そのものです。
芝居の演出やそれによって描かれる人物像にはどうしたって演出家の世界観が現れますから(それが「作家性」なるものの一端でしょうか)、たとえ技術的に似ていたとしても現れた世界観は演出家のものであって僕のものであるはずはないのです。
芝居の演出において、ゼミ生は僕のやり方を「お手本」にしたかも知れませんが、それはもっぱら技術的なことでしょう。学ぶことが「お手本を踏まえて何か別のものを作り出すこと」なのだとしたら、彼等は僕の映画とは違うなにか「別のもの」を作ったと僕は思います。出来上がった作品を見てぼくは新鮮な驚きと、自分の映画にはない面白さを感じました。そういう意味ではぼくにとっては十分に批評的な映画であったことも確かです。

ぼくが「霊験亀山鉾」のあらすじを聞いて、「ああ、これを映画にしたらさぞ面白いだろう!」と思ったのは、「構造的に山中貞雄の作品と同じであり、つまり映画化に適したものだと直観的に感じ取ったから」ではまったくありません。そういうことはちらりとも考えませんでした。僕が面白かったのは、そしてとちかね君や他の生徒たちが面白いと思ったのも、単純に主人公藤田水右衛門の悪役としてのキャラクターです。そしてピカレスクなアクション映画としての趣向の面白さです。娯楽映画の企画、初めの出発点とはそういうものだろうと思います。
「ゼミ生の主題の選択の仕方」に僕の影響があったとすれば「時代劇」でも金を掛けずに映画化できるんだというささやかな前例としての「死なば諸共」があるというだけですね。みんなもともと「時代劇」とか「仇討ち」とかやってみたかったんですね。やれるものなら。
しかし、だからといって江戸時代に書かれた時代劇を現代劇的な枠組みの中で映画にするのはそう簡単な作業ではありません。南北の原作を現代的な風俗で映画化するにはどういう世界像を設定するのが一番いいのかを企画のときからみんなでなんだかんだ話し合ってきました。敵討ちとか返り討ちとかが普通に行われる世界ですから、ただ現代劇にするだけでは話が成立しないからです。風土としてはペキンパーのメキシコのような世界だろうか(つまり「ガルシアの首」です)とか、奪われる「家宝」の扱い方は「ウインチェスター銃73」のようなのがいいのではないだろうか、とか。そういう話はガンガンしましたが、山中貞雄の話はまったくしなかったです。
これは「主題」と関わる話ですが、「霊験亀山鉾」で描かれている悪人は山中貞雄が描いたことのない悪人だからです。さきほど僕たちが演出においてまず第一に考えるのは芝居でありそれによって立ち上がる人物像であるという話をしましたが、演出はそういう物語の内容ともろに関わっているので、物語の構成のような技術の問題ではなく、その物語で描かれている人物像がまず一番の問題であり関心だからです。
葛生君が指摘したような物語の構造は南北(だけの特徴ではありませんが)から黙阿弥に受け継がれて、山中のシナリオ構成がそれら歌舞伎の影響下にあるだろうということは僕も感じます。けれども山中は南北的な悪人を描いたことはないのです(また黙阿弥を映画化しているにも関わらず黙阿弥的な悪人をも描きませんでした)。従って今回南北の原作を映画化するに当って山中の話題が出てこなかったのは当然といえば当然です。あのユーモアも山中的なものというよりはもともとの南北のブラックでナンセンスなものです。今回の企画の主題は「物語の構造」ではなく、南北の「魅力的な悪人」と「悪」を描くことでした。それはぼくも個人的にやりたいと思っていたけどまだやったことのないことだったから、ぼくは「タートルマウンテン」として出来上がった映画に刺激と面白さを感じたんですね。

昔の偉大な監督たちの独自な「作家性」に関しても「演出」と同じだと思います。表面的な「人物配置」や「カット割り」がどこから出てきたものなのか、その根元にある芝居自体の具体的な内容を考えるべきだと思います。つまり「芝居」の演出です。編集のリズムもその基本線は芝居によって作られると考えます。ショットは芝居の断片なんですから。基準は基本的に芝居以外にはありないと思っています。
葛生君の挙げているジョン・フォードハワード・ホークスアンソニー・マンサミュエル・フラーの違いはまず作る芝居や人物像が違うんですよね。まったく。フリッツ・ラングニコラス・レイの違いにしても同様です。彼等のスタイルは描くべき内容によって決まってきたはずです。つまり芝居の演出と人物像です。
しかし、それにしても、そういうほんの一握りの天才的な演出家の作品と比べられても困ります。僕たちは才能的には平凡な、環境的にはいろいろな意味でごく貧しい演出家です。僕の言う「経済性」とはたったの数万円を基準にしているんで、「B級映画」どころの騒ぎではないことは葛生君もよくご存知でしょう。つまり「経済性」による規定は遥かに、とんでもなく強いのです。ですから「作家性」どころか「作家」という考えすらないですね。昔の偉人たちを前に恥ずかしいです。しかしそれでも出来る限りまともな娯楽映画を作りたいと思い、せめて普通の「演出家」として題材と正しく向き合うことを心がけて四苦八苦した、その挙句の芝居の演出にどのような工夫や苦心が凝らされているかを、せめて批評家の方にはきちんと見てもらえると良いんですけどね。

僕自身、昔はたくさんいたまともな演出技術(シナリオの内容と狙いを正確に読み取り、芝居として的確に実現する技術です)をもった普通の演出家たちのように、最低限普通に、まともに芝居の演出ができる演出家にまずはなりたいし、ゼミの生徒にもなってもらいたいと思っているのです。「作家」みたいな立派なことを考える以前に、まずはまっとうな演出ができるようになる練習をゼミではやっているわけです。葛生君は「タートルマウンテン」を映画の教育という見地で失敗だとみなしているようですけど、あれだけまともな演出をちゃんとやっているのだから、たとえ「作家性」がないとしても、ぼくは立派だと思います。自主製作映画の作り手でもある葛生君にはごく普通のしかし最低限まともな演出でさえそう簡単に出来るものではないという難しさはよく分かっていると思うので、「似ているからダメ」とは言わずに、そのまともさを基準にして、うまくいっていないところがあれば具体的に指摘してもらい、さらにまっとうな娯楽映画に近づくための創造的な批評をお願いしたいのです。
西山洋市

西山さんへ

まず西山さんのメールにあったいくつかの誤解を解いておきたいのですが、私は単に「演出を「人物配置」と「カット割り」と捉えている」わけではありません。たぶんこれは前回のメールで「私が西山さん独特の「作家性」だと考えているのは、やはり画面に見られる限りでの「人物配置」や「カット割り」(言い換えれば、演出と編集のリズム)のあり方だと思う」と書いてしまったことから生じたものだと思うのですが、この点に関しては書き方が精密さを欠いていました。また「作家性」の話をしたのは、西山さんが最初にこの言葉を切り出したからです。

「霊験亀山鉾」と山中作品の物語構造上の共通性が、南北〜黙阿弥〜山中と継承された流れから来たものだという西山さんの指摘も確かにその通りなのでしょう。また西山さんが「「ああ、これを映画にしたらさぞ面白いだろう!」と思ったのは、「構造的に山中貞雄の作品と同じであり、つまり映画化に適したものだと直観的に感じ取ったから」ではまったくありません。そういうことはちらりとも考えませんでした」ということもたぶんそうなのでしょう(このあたりも私の書き方が拙かったです。別に西山さんが意識的にそう考えたと言いたかったわけではなく、主題の選択の際に無意識のレベルで映画的な勘が働いたのではないかということが言いたかったのですが。ただ実際にどうだったかに関しては検証しようがありません)。

さらに私がジャンル内における個々の演出家の差異について述べた際に、西山さん言うところの「ほんの一握りの天才的な演出家」を例に挙げたのは、単にそれ以外の演出家、つまり「昔はたくさんいたまともな演出技術(シナリオの内容と狙いを正確に読み取り、芝居として的確に実現する技術です)をもった普通の演出家」の作品を見る機会というのが、前者に比較すると圧倒的に少ないし、議論の共通前提として機能しないからです。例えば私は先日、フィルムセンターの山中貞雄特集で松林宗恵が監督した『がんばれ!盤嶽』を実に面白く見ました。松林宗恵はここでいう「まともな演出技術をもった普通の演出家」に当たると思いますが、彼のような名前を出して何かを議論しようとするのは、よほどの映画マニアであってもほとんど不可能でしょう(私自身、彼の作品はほとんど見ていません)。だから何かを議論しようとする場合、その共通言語として「天才的な演出家」の名前が出てしまうのは仕方のないことなのです。

とりあえず私が誤解だと考えた点は以上のようなことです。では次に本題に入っていきましょう(といってもごく簡単なものですが)。

西山さんがここ数年、「演出」という言葉のもつ「芝居」の側面(これを指すには香港映画など中国語圏の映画のクレジットで見かける「導演」という言葉が実にぴったりだと思います)を重視してきたことは私も承知しています。また「舞台の芝居と違って映画の、映画的な芝居にはカメラポジションが内蔵されているという実感があります。従って現場で作られた芝居をよく見ればカメラポジションはほぼ自動的に確定されます」という主張も全く同感です(もちろん「卵が先か鶏が先か」は場合によると思いますが)。「芝居の演出」についての西山さんの意見に関しても反論するつもりもありません。

「似ている/似ていない」の話はあくまでも見た者の「全体的な印象」のレベルでの話なので、これを当事者と議論してもあまり生産的な方向に向かわないこともわかりました。ただ西山さんのメールを読んで、ひとつ思ったのは、これまでの西山ゼミの作品が西山さんの作品に「似ていなかった」のは「演出」(ここではもちろん「芝居の演出」の意味です)の点において、不十分なところがあったからではないかということです。

そこで改めて『タートルマウンテン』を「芝居の演出」という観点から再検討してみたいのですが、この作品のDVDを借りることは可能でしょうか。もう何度か見れば「まともさを基準にして、うまくいっていないところがあれば具体的に指摘し」「さらにまっとうな娯楽映画に近づくための創造的な批評」をすることも、もしかしたら可能かも知れません。

また「悪を描くこと」に、あの作品が成功していたかどうかに関しては、再見してから考えてみたいと思います。

くずう

この後、西山ゼミからDVDを送っていただいたが、いろいろと多忙だったため、まだ見ていない。

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a)『組織暴力 流血の抗争』(長谷部安春)◎
b)『男の世界』(長谷部安春)△