TOKYO FILMeX 2009 その1

a)『ヴィザージュ』(ツァイ・ミンリャン)△
b)『喜劇 トルコ風呂王将戦』(渡辺祐介)◎
c)『昭和残侠伝 血染の唐獅子』(マキノ雅弘)◎
『ヴィザージュ』は、時折挿入されるレティシア・カスタのミュージカル・シーンなど溜息の出るくらいゴージャスで美しいものではあるし、作品冒頭のいかにもキートン的な水道を使ったギャグなど面白かったりもするのだが(ただし即物性に徹せず、フェリーニ的な幻想の方へと回収されてしまうのが残念)、作品中盤のジャンヌ・モローファニー・アルダン、ナタリー・バイらトリュフォー女優を一同に席につかせる室内シーンから(なお後の場面では同じポジションからの無人のテーブルのショットにオフでモローの「つむじ風」が聞こえてくる)、雪に包まれた夜の森で、ジャン=ピエール・レオとリー・カンションというトリュフォーツァイ・ミンリャンそれぞれの「分身」たちが映画作家の名前(彼らはこの作品で参照項となっている)を次々に挙げていくシーンを経て、森で迷ったカンションがマチュー・アマルリックというポスト・トリュフォー的な映画作家ともいえるアルノー・デプレシャンの「分身」と茂みの陰で情交するシーンをブリッジとしつつ、今度はルー・イーチンの葬儀でチェン・シャンチー以下ミンリャン女優を一同に集めるシーンに繋げるという作品の構成が、現代フランス映画(デプレシャン)にも目配りしつつ、二人の映画作家(トリュフォー/ミンリャン)の分身の邂逅シーンを「合わせ鏡」(なお映画作家の名前挙げゲームの中で唯一言及される映画作品が『上海から来た女』(オーソン・ウェルズ)であり、この作品から引用されたはずの文字通り沢山の「合わせ鏡」が舞台装置として森に配されている)のようにして、トリュフォーと自分の女優たちを向かい合わせるという構造になっていて、こういうあざとさが透けてみえてしまうのはいかがなものかと思うし、物語上の「死と再生」的な図式も凡庸なのだが、映画ではなく、金のかかった美術品のようなものとしてなら(というのもそもそもこれはルーヴル美術館が制作を依頼したフィルムなので)それなりに楽しめる。もっとも『ヴィザージュ』のような作品よりは『喜劇 トルコ風呂王将戦』のような下品で通俗極まりない作品の方に遥かに映画は息づいていると思う。