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夜光

「まじめな野心、それは志であり、映画に対する情熱だ」と、万田邦敏は『水の話』(トリュフォーゴダール)について、最近刊行された『再履修とっても恥ずかしゼミナール』の中で、当時の官房長官の発言をもじって述べている。もちろんこう発言してしまうことの無邪気さに極めて自覚的な彼は、この言葉の後に急いで「この青臭さと大見得」と注釈するのを忘れず、しかも「しかし、だからといって今なおこれと同じ子供っぽさが、政治の世界はいざ知らず、映画の世界にあって貴重であり、永遠のものであり得るかとなると果たしてどうか。」と疑義を表明している。この疑義もそれが書かれた1990年代前半にあっては、有効性を持ち得たかも知れない。しかし、周りを見渡せば「野心」も「志」も「情熱」も欠いた(あるいはそれらが空回りした)日本映画ばかりがごろごろ転がっている、2000年代も終わりに差しかかったこの時期にあって、「野心」と「志」と「情熱」の三つを兼ね備えた桝井孝則の待望の新作中編『夜光』の試みは極めて貴重である。
処女短編『罠を跳び越える女』(id:hj3s-kzu:20090327)における、その試み自体は評価されるべきものであるが、やや性急かつ生硬なストローブ=ユイレの日本的な土壌への移植(坂口安吾の恋人であった矢田津世子のプロレタリア小説の映画化である)の経験を通じて、この映画作家が取り組んだのは、日本語の台詞の発声の問題であり、そこで彼が発見したのは、関西弁の韻律の美しさである。マスメディアにどっぷり浸った関西圏以外の人々にとって、関西弁とはたかだか「お笑い」や「バラエティ」の世界において「標準語」に対して道化的な役割をする従属的な言語にしか過ぎないかも知れない。しかし『夜光』を見、そしてそこで登場人物によって交わされる言葉に耳を澄ましてみることで、私たちはほとんど関西弁の詩的言語化とも言える驚くべき事態に立ち会うことになるだろう。特にそこで唐突に断ち切られる接続詞(「そして」)の美しさ!それはこれまで日本映画に存在しなかったものだと自信を持って断言できる。しかもこの作家においては、この詩的実践が政治的な姿勢と密接に結びついているのだ(「美学の政治化」)。もっとも「政治」といっても、それは大文字の政治を指しているわけではなく、私たちの日々営む生活に深く根ざし、そこから立ち上がってくるものとしての「政治」である。冒頭のショットで提示されるカフェ(それは関西のシネフィルにはおなじみの映画館、プラネット・プラス・ワンの下にある「太陽の塔」だ)の常連客から選び出されたという素人俳優たちは、的確な演技指導を施されることによって、画面の中で素晴らしい存在感を放っている。こうしたキャスティングの発想源が、『シチリア!』(ストローブ=ユイレ)以降の諸作でおなじみのシチリアの素人劇団とストローブらとの共同作業から来ていることは想像に難くないが、『夜光』の映画作家はそのアイデアを単なる思いつきに終わらせずに見事に現実のものとなし、その達成は驚嘆すべきものである。この他にも賞賛すべき点は多々ある。例えばヒロインの友人のカフェを営むカップルのボケとツッコミには大いに笑わされたし、ヒロインが一人ベッドの端に腰掛けて一人語りを始める最初の瞬間には深く心を揺り動かされ、思わず涙してしまった(このシーンは意図せざるダニエル・ユイレ追悼にもなっていると思う)。そしてヒロインの恋人が彼女に宛てて黙々とメールを打つショットはまさに「発明」の名に相応しいものだろう。
残念ながら、この素晴らしい映画はまだ大阪での公開しか決まっていない。したがって心ある関西の映画好きはこの機会を逃さないで欲しい。特に今年の日本映画ベストテンを選ぶ際には決して欠かすことのできない作品だと個人的には堅く信じているので、この際、関西在住の方たちはその特権を活用して、関東の映画好きを大いに悔しがらせてもらいたい。もちろん関東の映画好きも心あるものならば、この作品を見るために大阪への一泊旅行をするくらいの心意気が欲しいし(私も再見しに行くつもりだ)、もしあなたが映画評論家なり映画ライターだとして、これを見ずにベストテンといった年中行事に惰性で参加するならば怠惰の誹りを免れまい。必見。

『夜光』公式HP http://www.shikounorappasya.or.tv/yako/