ストローブ=ユイレとことんフォードを語る

hj3s-kzu2005-09-27


蓮實重彦氏の「ジョン・フォード論」でも引用されていた、ストローブ=ユイレジョン・フォードについて語った「カイエ・デュ・シネマ」誌の別冊「ジョン・フォード」(1990)のインタビューの全訳を以下に掲載します。インタビュアーはシャルル・テッソン。(訳:葛生賢)〕


―私は『歴史の授業』の上映後の討論を覚えています。そこではあの作品とホークスの『三つ数えろ』とが対比されていました。つまり、絡まった糸をほどき、人々に会い、彼らに質問する調査員の人物像です。つまるところ、あなた方の映画においては、フォードよりもホークスの方がより明白ではっきりしているということです。そうではありませんか。

ジャン=マリー・ストローブ(JMS) 『歴史の授業』は反ホークス的な映画です。上がったり下がったりするクレーンの運動は分断されていて、ホークスとは何の関係もありません。もし私たちがホークス的な映画を作ったとしたら、それは『オトン』です。私たちの映画がフォード的かどうかに関していえば、私はそう言うことを拒否しますが、というのもそうしたことはとてもうぬぼれの強いことに思えるからです。そういう役目はチミノやコッポラに任せておきます。私はフォードと張り合おうとは思いません。


―言い方を変えましょう。あなた方はフォードのどんなところが好きなのですか。

JMS 正確な地点から始めましょう。第一点、1965年、スイスで、―私は刑務所行きを命じられていたので、フランスには帰れませんでした―ジュネーヴで働いていた数学者の友人の家での発見でした。私たちはそこで『妥協せざる人々』の字幕をつけていました。遠い郊外で、私たちは『アパッチ砦』を見ましたが、それはひとつの啓示だったのです。その時代、その映画は素晴らしいが、残念なことに―サドゥールを読み直してごらんなさい―ハッピーエンドがある、と皆は言っていたものです。そして、私たちはそれが映画の残りの部分よりもいっそう残酷なものであることを発見しました。このハッピーエンドとは、私たちが映画で見た戦闘を賛美する絵画が掛けられた壁の前で、ジョン・ウェインが行う記者会見です。ジャーナリストたちはジョン・ウェインに、それは本当にその通りだったのか、人々が言うようにカスターは偉大だったのか、と質問します。『殺人狂時代』のチャップリンが、「紳士淑女の皆さん、この怪物を御覧なさい」と検事が言うのを聞いた時のように、ジョン・ウェインはそっぽを向かないようにするのがせいぜいです。ジョン・ウェインが振り返って背後の絵を見つめ、ためらってから立ち上がり「そう、まさにこの通りだったのです」と言うのを私たちは見ます。彼は人々を戸口まで送り、カスターが身につけたのと全く同じように制帽を被ります。そこにおいて、フォードとは人々が信じているようなもの、それどころか人々が私たちに語っているようなものでは全くない、ということを私たちは理解するのです。ジョン・ウェインさえ、彼らが目にしている絵が糞であることを言う勇気はないのです。第二点、私たちはすぐ後に『騎兵隊』という素晴らしい映画を発見しましたが、これは内戦という状況についてそれまで作られなかったような種類の唯一の映画です。第三点、私たちは、もし私が私的なシネマテークを創るとしたら、まず第一に収蔵するような映画を見ました。それは上映時間10分の『南北戦争』という『西部開拓史』の一挿話です。
フォードは、マイルストーンアンソニー・マン、そして特にキューブリックのような馬鹿げた戦争映画を作らなかった唯一の人間です。『アパッチ砦』のラスト、ジョン・ウェインが窓越しに騎兵隊を見つめる時、私たちは彼らが殺戮の場へと還っていくと感じます。フォードが戦争を撮る時、そこにはサディズム的な場面は全くなく、媚びなどひとかけらもありません。私たちは他人を串刺しにするような奴など決して見ることはないでしょう。フォードが軍事的な舞台に魅了される時、彼はそこからバレエを作っているのであって、それは全く別の事です。そこにはイデオロギー的な魅惑はありません。フォードにおけるリンチも同じことです。ラングの『激怒』を除けば、ウェルマンの『牛泥棒』のような映画は全て、リンチの実践についての吐き気を催させるような映画です。


―フォードにおいては、ラングと同様、群集、集団に対するこうした恐怖があります。
ダニエル・ユイレ(DH) それは群集に対する恐怖ではなくて、異常なもの、不合理なもの、火薬に火をつける火花に対する恐怖です。それでもなおフォードにとって、こうした人々は怪物などでは全くありません。そこには宿命などなく、常に彼らに行動を起こさせる人がいるでしょう。


―『太陽は光り輝く』の人々は最後にプリースト判事に投票するでしょう。
JMS 『荒野の女たち』の女性はこの粗野な人間たちに行動を起こさせ、彼らは動揺するのです。フォードにおいて唯一変わらないもの、それは社会機構です。そこではもはや手の下しようがありません。それは集団ではなく、上から下まで、そこにあるのは社会的地位であり、全てを堕落させるのは金銭なのです。支配階級については、精神錯乱を起こして、権力とは金だと言う男が出てくる『世界は動く』ほど遠くまでいった映画はないでしょう。経済的危機に見舞われた男の妻が、田舎へ、牛たちのもとへ帰り、まさにその時、彼らの言うことはもっともだと認めるより以前に、もし君がある人(サタン)を崇拝するなら、全ては君のものになるだろうと付け加えた司祭を忘れられません。農民を堕落させる金銭については、『香も高きケンタッキー』の中にそれを見ることができます。彼らは馬を買うのですが、その馬が翌日は働かないからと、土曜日には餌を食べさせないのです。それでもなお、彼らの中にも、それにためらう二人の人がいるのです。フォードには常にこうしたものがあります。


―確かに『馬上の二人』のジェームズ・スチュワートは、初めはいやな人物ですが(彼は金のことしか考えません)、軍隊の人種差別の的になった若い「インディアン女」を彼が助ける瞬間には驚かされます。
DH なぜならフォードは、ピューリタニズムや偽善的態度などひとかけらもないような映画作家だからです。有徳の士は最悪の下劣な行為をすることができ、ゴロツキは最良のことができるのです。
JMS フォードは社会的区分について最も高貴な感覚を持った映画作家です。それはブレヒトにおけるよりも明白ですらあります。『海の底』を見て御覧なさい、そこには一連の並外れた社会的行動があります。君がフォードの最後の映画を見た時、君は、アルジェリアや一般に植民地化された領域で起きていたことを、その問題を扱っていると自称する映画の中でよりも、よりよく理解したのです。フォードほどインディアンに共感していた人間はいませんでした。人種差別主義者には『シャイアン』のような映画は作れません。
DH インディアンとともに現れる不合理なもの、それは同化されざるものです。

―フォードの作品における共同体への愛ということがよく話題にされますが、彼はまた、ウィル・ロジャース主演で、そこから排除された人間を撮っています。
DH それは彼のカトリシズムからきています。キリストの物語はそれとそれほど違いません。
JMS それは『メアリー・オブ・スコットランド』であり、『男の敵』であり、これらの作品の二人の主人公の間には根本的な違いはありません。それは同じ悪循環なのです。フォードは傑出しています。というのも彼が撮ったものはある幅、並外れた多様性を見せているからです。重要なのは、フォードが特定のスタイルを持っていなかったことです。『三悪人』とウィル・ロジャース主演の映画、特に私たちのお気に入りの、あの素晴らしい、ネオ・リアリズムの全てを一掃してしまうような作品(『ドクター・ブル』)との間に似たところがあるでしょうか。この映画を見れば、当時、リヴェットとトリュフォーが述べたように、いかに多くのネオ・リアリズム映画がとるに足りないものであるかが分かります。この映画の中で、小さな田舎町の配置を見る時、列車が到着し、プラットフォームに郵便貨物が投げられ、娘が郵便局に行くのが見られます。その理由をようやく私たちが理解するのは一時間が過ぎてからです。物語の配置は全くドキュメンタリー的なのです。
フォードにおいては、全く常軌を逸した各登場人物の社会階層についての鋭い感覚があります。『香も高きケンタッキー』と『電光』―どちらも同じく素晴らしいのですが―を再見した後、私は、フォードについて長い間、自分に提起していた問題を遂に理解しました。映画が展開するにしたがってますます豊かなものであることが明らかになっていくひとつの物語、ひとつのフィクション、ひとつの物語行為、そうしたものは、非常にドキュメンタリー的で、物語の水準では貧しい、あたかも物語行為など抜きにするとでも言うかのような流儀で、フォードが映画を開始するのを邪魔しません―そこにおいて、私たちは『ドクター・ブル』を発見するのです。『香も高きケンタッキー』を見てごらんなさい。どれほどの間、私たちは馬を見るでしょうか。そして彼がテクストを画面上に載せるために、それはさらにいっそう驚くべきものなのですが、私たちは、『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』の企画について話すために、1954年にブレッソンに会いに行った時、彼が私たちに言ったことを考えています。私たちは少し議論になり、彼は私たちに「映像をつくるのは言葉です」と言いました。ダニエルは不機嫌になったものです。馬たちはそこにいて、別の物語をあなた方に語るのです。
DH フォードは、ショットの中では、字幕のテクストの中にある物語を語りません。そこにはショットがあり、私たちは登場人物の間で起きていることを理解するのです。
JMS 私たちは無字幕の溝口よりチェコ語字幕付きのフォードの無声映画をよりよく理解します。字幕の中で馬が考えると彼が言う時、それは平行した別の物語なのです。
DH 彼はテクストに対応するようなことを馬に模倣させようとはしませんでした。フォードと馬たち、それは『モーゼとアロン』の奇跡の技法です。それは確かにフォード的です。
JMS 私が言ったのではありませんよ(笑、沈黙)。彼は、私たちが蛇を撮ったように、馬を撮ったのです。
DH それにフォードはキャメラ移動が好きではありませんでした。まさに馬のために、彼はたくさん移動したのです。私たちと同様に、蛇を撮るには、人はとにかく動かなくてはならなかったのです。
JMS 私たちは構図を横切る蛇の固定ショットを予定していたのですが、そんなものは存在しませんでした。私たちは一台のキャメラで動きを止めることなく300メートル分のフィルムを三度撮影しました。彼の馬にあっても同じことです。初めは、物語行為はなく、ただドキュメンタリー、開始する一本の映画があるだけです。徐々にこの物語行為はいっそう豊かになり、決してドキュメンタリーを殺すこともなければ、その血を吸うこともありません。フォードにおいてフィクションとは、気取ったもの、映画という樹木を破裂させてしまう寄生物、全てを食い尽してしまう酸、眼の火薬といったものでは決してなく、むしろそれは、子供たちのための物語の水準に置かれた、とても豊かで、現実の重みに満ちたものです。
DH 『モーゼとアロン』の間、私たちが提起した問題の全ては、映像が想像力を阻害してはならないということを知ることにありました。それはまさにフォードの作品にあるもので、それはあたかも彼が息をしているようにそこにあります。フォードが示し語っていることの全ては決して想像力や現実を飽和させません。そしてそれは驚くべきことなのです。
(おわり)
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a)『腰弁頑張れ』(成瀬巳喜男)★★★★
b)『夜ごとの夢』(成瀬巳喜男)★★★★
c)『馬上の二人』(ジョン・フォード)★★★★