アルベール・セラの演出のもとに職業俳優及び非職業俳優によって演じられたマルキ・ド・サドの思想と文学

リベルテ』(アルベール・セラ)

これまで何人もの映画作家がサド侯爵の文学(パゾリーニ、神代)あるいはその生涯(カウフマン、ジャコー)の映像化に挑戦し、その都度、玉砕してきた歴史を見る限り、映画にとってサドは鬼門に思える。原作者としてクレジットはないものの、サドから着想を得たことが明らかな本作において、ではセラはこれらをどう料理したのか。そもそも先人たちが失敗したのは、サドが描いた倒錯行為のみをスペクタルとして提示しようとしたところに由来する。サドを一編でも読んでみればわかるが、そこでは倒錯行為の前後に長々とした「哲学的な考察」(能書きともいう)があり、そうした考察と行為の描写がペアで延々と退屈に反復される(その点、まず抄訳でサドを日本に紹介した澁澤龍彦は賢明だったかも)。ところがサドの想像力によって創造された倒錯行為の数々は、文字として記された構想の無限に広がる壮大さに反して、それを現実世界で再現しようとするならば、忠実に実行することはほぼ不可能で、仮に実現できたとしても実に骨の折れる労働を必要とし、その割にはしょぼいものにしかならないのだ。なぜなら人間の身体は有限だから。映画史におけるセラの先人たちが理解していなかったのも、まさにこの点である。フーコーの『監獄の誕生』の最初の数ページでは、ルイ十五世暗殺未遂犯ダミアンの処刑(四つ裂きの刑)の実行がいかに困難なものだったかが描かれているが、本作の冒頭で登場人物の口からほぼそのままの形で引用されるこのエピソードが意味するところも、やはり構想とその実現とのギャップである。想像力はその実行にあたって、物質という現実の壁に常に突き当たる(そしてこれはまさに映画製作という行為自体にも当てはまる)。それを端的に表しているのが、全裸にされ、手を縛られて樹に吊るされた女が、金盥いっぱいに貯められたミルクのような精液を大量に頭からぶっかけられた後「もっと!」と叫ぶ場面だ。まさかそういう反応がくると思わなかった男たちの困惑した顔には失笑を禁じ得ない。「この金盥をいっぱいにするのに一体おれたちがどれだけ苦労したと思っているのだ!」とその表情は言いたげだ(セラの処女作でサンチョ・パンサを演じた太っちょ君が、ここでもリベルタンの貴族の従者を演じて、いい味出している)。あるいは女の尻を鞭打つも、逆に「そんな柔な腕じゃなくて、もっと強く!」(正確な台詞は忘れた)と言われ、へろへろになる男。自らのファンタジーの中で男たちは独り善がりな全能感で女たちを支配しているつもりでいるが、その実行にあたっては「犠牲者」の役であったはずの女たちの際限なく更新されていく欲望(「もっと!」)に支配されてしまうというこの逆説(ここに男女のオーガズムの差異をめぐる通説を重ね合わせることもできよう)。こうした男たちの惨めさ、卑小さ、恥ずかしさは、この鞭打ち場面のすぐ後に続く、老いた貴族が貧弱な尻を突き出して自ら鞭打たれる場面によって強調されている。つまり今作において、セラはサド作品をフェミニズム的に脱構築しているとも言えるかも知れない。そしてある女がリベルタンの一人に跨って、陰部を惜しげもなく曝け出して放尿するショット(斜め前からのアングルのやや引いた構図で、ここまではっきり実際の液体が噴出するショットを、ハードコアポルノではない一般映画で、ボカシなしで見たのは個人的には初めてかも)は女たちの勝利を高らかに宣言しているように見える。なおこの映画は、夕暮れから夜明けまでの夜の闇の中で展開するが、薄暗がりの中、いく人かの男と女、行為者と観察者(要するに出歯亀)が順列組み合わせ的に役割を交代しながら、森の中をうごめく様を(そして多くの場合、男たちは自らの股間を弄りつつ・笑)、実に見事な撮影と照明で捉えており、そのこともまた、明らかな光の下に繰り広げられるスペクタルとして倒錯行為を提示しがちだった先人たちの轍を踏むことから、本作を遠ざけることに貢献している。