適切な距離

(以下に読まれるのは、2011年6月3日に行われた「映芸シネマテーク vol.9」のレポートとともに映画芸術DIARYに掲載された大江崇允『適切な距離』の作品評である。現在、このサイトがアクセスできない状態になっているために、ここに再掲する。なお初出時のタイトルは「測量士としての映画作家―『適切な距離』について」である。)

「新人監督のデビュー作」と呼ぶにはあまりにも落ち着き払った演出で見るものを驚かせた『美しい術』の大江崇允が早々に新作を撮り上げたという知らせは、前作に接した少なからぬ数の映画好きを興奮させた。もちろん私もそのひとりである。そう、彼は「新作」という言葉が「期待」という心の働きを煽り立てる数少ない日本の映画作家なのだ。その『適切な距離』で初めて彼の作品に接する人々に対しての紹介としては、これだけ言えば充分だろう。新作が期待できる映画作家など今の日本を見回しても、そうざらにいるものではない。
 前作『美しい術』がそうであったように『適切な距離』もまた、そのタイトルが暗示しているように、主人公たちは「生きるのが下手」な人たちである。彼らは生きる上での「美しい術」を持ち合わせておらず、他人との「適切な距離」を計りかねている。人間関係。上司との、同僚との、友人との、恋人との、親との、子供との、などなど。およそ、大抵の人にとって、世間で生きていく上での悩みの原因のトップに挙げられるのは、カネの悩みを別とすれば、この「人間関係」であろうことは、電車の中吊り広告を眺めてみればわかる。大江崇允の映画に出てくるのは、このごくありふれた悩みを抱えた人たちである。そんなどこにでもいるような人たちの「日常」を描いた作品が果たして面白いのか。ところがこれが実に面白いのである。前作『美しい術』が一部のナイーヴな観客たちから受けた「物語が無い」という見当違いの批判の原因の一端も、おそらくここに由来する。彼らは『美しい術』の登場人物たちに自らの似姿しか認めず、そこから「非日常」へと逸脱していくストーリーが与えられなかったことに腹を立てたのだ。しかし映画は単なるストーリーに還元できるものではない以上、彼らが見なかったもの、それはまさに映画そのものである(例えば、そうした観客たちが小津安二郎の映画を見てやはり「物語が無い」と言うのかどうか、個人的にはやや興味がある)。少しでもまともな映画的感性を持ち合わせているものならば、黒画面に若い女性のオフの声で「私は犬だ。わん」と言うすぐ後に、横断歩道に佇むヒロインの真横からのロングショットが続く『美しい術』の鮮やかな導入部に感嘆し、その「物語」の「語り口」に魅了されないわけにはいかないからだ。
 しかし『適切な距離』で描かれるのは、一見『美しい術』とは真逆な世界である。この作品の主人公は飲み会の席でウケを取るために、幼い頃に父親から受けた虐待の思い出をオーヴァーな演技で自虐的に周りの演劇仲間たちに語ってみせるような大学生であり、しかも唯一の家族である母親とのギスギスした毎日を送っている。そこには前作のように美しい妙齢のヒロインたちは登場しない。こうした陰鬱な「日常」が暗部を強調した手持ちキャメラの慌ただしい画面によって切り取られるのを目にするものは、果たしてこの先、一時間半もこの調子で続くのだろうかと不安になっても無理はない。しかしそれが杞憂に過ぎないことは、主人公と親友が「シューカツ」用のスーツを選ぶシーンと、その直後、全く同じ舞台に主人公の母親が登場し、先の場面を変奏してみせる一瞬、繋ぎ間違いかと思わせるシーン(環境音が同じなので驚きは倍加する)を見てみればわかる。これ以降、主人公と母親が互いの「日記」を盗み読むという谷崎潤一郎の『鍵』を思わせる行為を介して、「そうである現実」と「そうでありえたかもしれない現実」との相互作用が生じ、さらにややこしいことに物語世界内に存在する人物に想を得て、それを理想化した姿で互いの「日記」に登場する架空の人物たちとの関係が、その「日記」の書き手たちにフィードバックすることで、ついには書き手たち自身の関係のあり方にまで変化を及ぼすという複雑な構造が、大江崇允の「語り口」によって実に明晰に描かれていく。しかしその明晰さが実はゆらぎを孕んだ不安定なものであることにも、現代日本の若手映画作家たちの中でも、一際その「知性」によって際立つ彼は充分自覚的であり、それは具体的には手持ちキャメラの画面の氾濫するこの作品の中にあって、その喧噪が瞬間的に静寂へと変わる、母子が食卓を挟んで向い合い、無言で食事をするショット(被写体とキャメラとの関係においては、この作品にあって、おそらくこれが「適切な距離」なのかも知れない)がこの映画の終盤でどのように撮られているかを見てみればわかるだろう。そして、この映画を最後まで見て、「日記」によって生じた人間関係の変化と思われるもの(それは終盤のカフェでの母子の切り返しによって、とりあえずは表現される)が、果たして真の変化だったのか、それを確かめてみるためにもこの作品をもう一度冒頭から見直してみたい欲求に駆られるに違いない。そして再びそこで作家の仕掛けた「語り口」の妙に私たちは唸らされることになるだろう。
 最後に一言。この『適切な距離』の上映を機に、順序は逆になってしまったが一刻も早く『美しい術』が東京でも上映されることを願ってやまない。あらゆる点で対照的なこの二作を並べてみることで大江崇允の映画作家としての幅を私たちは知ることができる。なお手持ちキャメラを基調とした『適切な距離』に対し、端正な固定画面とパン、横移動が特徴的な『美しい術』の中で唯一手持ちキャメラが使われるのが、『適切な距離』で母親が感動しながら見つめるテレビ画面に映る、そのクライマックスシーンである。

 

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