ぼくら、20世紀の子供たち

編集作業も大詰め。一人でコツコツとやってきて8割方仕上がったところで、盟友Gくんに御登場願う。というわけでOくん宅をお借りして、二人で缶詰め。会うなりいきなり、何故イーストウッドは偉いのか、という難問を突き付けられる。Gくんの説では、イーストウッドが出てくるイーストウッド映画では、イーストウッド自身が物語の最終審級を保証しているのだが、イーストウッドが出ていないイーストウッド映画(例えば『真夜中のサバナ』、『ミスティック・リバー』)ではそもそも最終審級が存在しないため、渾沌に陥る。ここで私も補足、最終審級の存在しないイーストウッド映画では物語の最後に生贄の小羊が殺される(例えばティム・ロビンス)。Gくんによれば『ミリオンダラー・ベイビー』の不気味さはイーストウッドが出ていながら、最終審級のないイーストウッド映画のようであることだ(つまり「無能な父」)。これは『ミスティック・リバー』を経由したことが大きいだろうとのこと。さらに私も突っ込む。しかし『恐怖のメロディ』以来、そもそもイーストウッドとは受動的な存在ではなかったかと。編集そっちのけでこんな具合にあれこれと議論するが結論には到らず。で、ようやく拙作の編集作業を始めるが、さらにGくんに拙作の盲点を突かれ、いきなり煮詰まりデニーズへ。で、音楽が必要だということになり、Gくんおすすめのショスタコーヴィッチを探しに閉店間際の新宿のタワレコまで行って試聴するがピンと来ず。ぼくら、20世紀の子供たち、というわけで19世紀ではなく20世紀の音楽あれこれ探し求めライヒの卓で耳が止まる。ついでにラインハルトのバッハも購入。クラシック好きのGくんはすでに4枚くらい手にしていた。で、帰って早速、はめてみるとミスマッチ感があって面白く、(異化)効果的。ライヒに導かれて、あとの作業はスイスイ進む。いい買い物をした。で、朝の6時には作業終了。二泊三日を覚悟していたので、何だか物足りないが、別に直すところもなさそう。ということで一寝入りしてから、駅前のファミレスで昼からビールを飲んで別れる。彼は『ミリオンダラー・ベイビー』をもう一度見に行くそうだ。私はひと風呂浴びたい気分だったので帰宅。というわけでスタッフ・キャストの皆様、おかげさまで完成いたしました。どうもありがとうございます。
(追記)イーストウッドの出てこないイーストウッド映画を見た後の居心地の悪さ(特に『ミスティック・リバー』にそれは顕著なのだが)は、つまるところ最終審級が観客の手に委ねられているところからくるのではないだろうか。なぜなら私たちはフィクション内でのイーストウッドのように他者の死を看取るという責務に耐え得るだけの強靱さを持ち得ていないからである。『ミリオンダラー・ベイビー』にも少しそういうところがある。