ハラキリ

hj3s-kzu2005-09-13

a)『ドクトル・マブゼ 第一部』(フリッツ・ラング)★★★★
b)『ドクトル・マブゼ 第二部』(フリッツ・ラング)★★★★
c)『ハラキリ』(フリッツ・ラング)★★★★
c)映画史には、ある作家についてこちらが抱く硬直したイメージに揺さぶりをかけるような途方もない作品が存在する。『公共問題』(ブレッソン)や『東京行進曲』(溝口健二)がそうであるように、ラングの『ハラキリ』もそうした作品である。
実際、何の予備知識もなしにこの作品を見た場合、そこにラングの署名を認めることは極めて困難である。*1あえて言うなら、「復讐心」に満ちた大僧正が僧院の「階段」を降りてくるイメージがそれだろうか。
間違った日本文化理解に基づくエキゾチズム溢れるこのトンデモ映画が、にもかかわらず感動的なのは、映画の単純さへの確信が見る者の感性を撃つからだ。湖畔の木陰で愛を語らう恋人たちを逆光で捉えたショットを見れば、ヒッチコックやドライヤーがそうであったように、ラングもまたグリフィスから出発したのだということが分かる。ここでいうグリフィスとはもちろん映画的技法を集大成した映画作家ではなく、存在論的とも言うべき映画の単純さに賭けたものとしてのそれである。あるいは茶屋のバルコニーで寄り添いながら歩く二人を仰角で捉えたショットや、風に吹かれながら浜辺で幼子を抱えながら夫の帰りを待つヒロイン(『死滅の谷』のリル・ダーゴヴァー)のショットなど。
こうした魅力的な女性に向けられるラングの眼差しは、『ドクトル・マブゼ』で伯爵夫人を演じたゲルトルート・ヴェルカーを捉えた生々しいショットにも息づいている。しかしその後のラングの作品を見ると、こうした眼差しは徐々に薄れていき、鮮明な輪郭を持った女性性のイメージが再び作品の表層に浮上するには、アメリカ時代ののジョーン・ベネット(『マン・ハント』、『飾窓の女』、『スカーレット・ストリート』、『扉の陰の秘密』)やグロリア・グレアム(『復讐は俺に任せろ』、『仕組まれた罠』)まで待たなければならない。ただし、そこでの彼女たちはドイツ時代のリル・ダーゴヴァーやゲルトルート・ヴェルカーが持っていたようなイノセンスをすでに失っている。
傑作『ドクトル・マブゼ』が撮られるのは、『ハラキリ』のわずか三年後である。この間に一体、ラングの内で何が生じたのだろうか。それを究明するためにも『蜘蛛』、『さまよえる彫像』、『戦う心』の一刻も早い公開が待ち望まれる。必見。

映画狂人、小津の余白に

映画狂人、小津の余白に



*1:蓮實重彦氏が、この作品についての文章(『映画狂人、小津の余白に』所収)で、そこに「扉の陰の秘密」とも言うべき「扉」を巡るラングの想像力の一貫性を指摘しているのは流石。題名とは裏腹にこの作品を枠付ける二つの「ハラキリ」行為が画面で示されることはない。そこにあるのは事後の死体である。