映画美学校フィクション・コース初等科修了作品発表会

フィクション・コース初等科2006年修了作品より。
『そこへ行く』×
『交わる』×
『キミマニア』△
『箱くずし』△
『いつか終わるということ』×
『臨月』×
『光の中で』×
2005年度の作品については以前書いたのでそちらを参照のこと(id:hj3s-kzu:20060909)。
『そこへ行く』の主人公たちはなぜ日記を開かないのか。もちろん開いてしまえば話が終わってしまうからだが、開かないだけの動機づけが足りない。また端正な画づくりがされているが、それだけに後半、男が川に落ちるショットはもう少し工夫して欲しかった。語りの上で複数視点が採られているが、この尺だと単独視点の方がよかったのでは。
『交わる』は妄想男の描写が類型的すぎるし、髪を舐める行為の官能性が足りないので、この人物が活きてこない。端的に言ってこのパートはカットして、直球の少女映画を撮ればよかったのでは。また鏡が二回登場するが、説話的にも重要な小道具ゆえ、もっと撮り方を工夫すべき。
『キミマニア』は画づくりの点からいうと7作品中、最も稚拙なのだが、私はこの作品に一番可能性を感じた。ことによると画面のクオリティと作品の面白さはこの学校にあっては反比例の関係にあるのかもしれない(とはいえ丁寧に撮るに越したことはないよ!)。こぢんまりした今年の作品群の中では最も野心的(語りにおいても、演出においても)。惜しむらくは主役の二人の顔がやや弱く、脇役の小泉八雲を朗読しながら棒を振り回して登場する井川耕一郎やニーチェ的な倫理を講義する西山洋市に喰われてしまっていることだ。ヒロインの台詞回しは微妙なラインだとは思うが、その志は買いたい。
『箱くずし』はオッと思わせるショットが二つあった。親父が外に出ていくのを主人公が目で追う横移動と、義兄が消えるのをワンショットで見せる後退移動である。また煙草屋を正面から捉えて親父と義兄の微妙な関係を見せているショットも悪くない。こういう「労働」が感じられるショットを見るのは嬉しいものだ。ただどう贔屓目に見てもあの主人公は小説家に見えない(彼が語る言葉より元編集者の義兄が語る言葉の方が遥かに小説家っぽいのはどういうわけか)。また後半で煙草屋の外からの横移動で、幽霊だと判明した後の義兄が皆と一緒に座っているというショットがあるが、あれはいらないと思う。ラスト、骨壷を入れた箱に親父が載せるセブンスター(だっけ?)とその時の台詞もよい。
『いつか終わるということ』は、撮照技術は見事だが、中身がない(なお今年は自然光を活かしたライティングが多かったが、これってトレンドなのか?)。前半で三人の関係がきちんと描いていないので、後半で突然ヒロインに泣かれてもこちらとしては困る(このシーンだけ同録になるのも興醒め)。
『臨月』はアヴァンタイトルの画面連鎖にはオッと思わされたが、その後の展開を見ると思い過ごしだったようだ。あの緑色の血が何だったのか、もう少し説明してもよかったのでは(まさかSFじゃないよね?)。ラストも曖昧。
『光の中で』は不穏に揺れるランプシェイドから「おお、やってる、やってる」という感じで、その後、窓ガラスに血が飛び散って(『大日本人』のパクリ?)、ベランダから下を見ると女の屍体があったり、夜、やはりベランダから橋を見下ろした主人公がその場所に行き、自分の部屋を見上げると恋人が何者かに襲われるのが見える、といったあたりのアクションの呼吸はよいのだが、その後がいけない。謎の男が主人公を襲撃するシーンはもう少しテンポ良くして欲しいし、緊張感に欠ける。中盤から赤い服を着た女が登場するあたりから、物語が曖昧になっていくし、シネフィル趣味の方向に失速していくのが残念。またせっかく怪しげな警官を出しておきながら、物語的に活用されていないのも惜しい。あれだけ撃たれて主人公が生きているというのもよくわからん(まさかゾンビじゃないよね?)。あの謎の男と女も一体何だったのだろう。わからないことだらけだ。いやわからなくてもいいのだが、それを強引にねじ伏せるだけの強度が足りない。ところで、この映画に限らず今年のほぼ全ての作品で、主役を演じている役者があまり映画の顔をしていないのは問題だと思う(ただし『そこへ行く』の男と『箱くずし』の親父は例外)。映画美学校のロビーを見回せば周りにもっと映画的な顔の人たちが沢山いるだろうに。ちなみに映画美学校映画祭で参考上映された『心臓物語』の方が映画を撮ることの喜びに満ち溢れていたように思うのだが、気のせいだろうか。どうも釈然としない。
釈然としないので上映後のトークは聞かずにすぐに帰る。シネマヴェーラに行き損ねて『愛の陽炎』(三村晴彦)を見逃したのがかえすがえすも残念。