TOKYO FILMeX2007 その5

a)『脳に烙印を!』(ガイ・マディン)×
b)『ブッダは恥辱のあまり崩れ落ちた』(ハナ・マフマルバフ)×
c)『ヘルプ・ミー・エロス』(リー・カンション)△
d)『食べよ、これは我が体なり』(ミケランジュ・ケイ)×
今日はせっかく早起きして四本も見たのに全てハズレ。
ガイ・マディンは2004年のフィルメックスで特集が組まれたが、最初に見た『憶病者はひざまずく』と併映短編二本があまり面白くなかったので、それ以上、深く探究しなかった。今回の『脳に烙印を!』だが、「パパ―ママ―わたし」からなるオイディプス三角形と、その逸脱としての性的倒錯をめぐる幼少期の記憶の物語とまとめられようか。いくらファンタジー的な処理がされているとはいっても、こういう作家の妄想を見せるタイプの映画はうんざりする。高速モンタージュとナレーション(イザベラ・ロッセリーニによる)と音楽によって作品は構成されているが、それは大半のショットが粗雑で魅力に乏しいから。
『ブッダは恥辱のあまり崩れ落ちた』は、破廉恥の一言。確かにアフガニスタンではここで描かれているような悲惨な現実があるのだろう。しかしそれについて発言したいならテクストを書けばいいのであって、映画に撮る必要はない。初期のキアロスタミ(『パンと裏通り』『友だちのうちはどこ?』『ホームワーク』)とドワイヨン(『ポネット』)を参照した形跡が見られ、子供のいきいきとした表情を捉えた演出は上手いが、ラストの二つのカットがその美点を全て帳消しにしてしまっている。つまり具体的に言うと、「タリバンごっこ」をしている男の子たち(目がマジで恐いし、やることが残酷)に虐められているヒロインの地面に落ちる十字架状の影と、その友だちの「死ねば、自由になれるんだよ」というオフの声(彼の泥まみれの姿は明らかに破壊された石仏を連想させる)。それに続く、石仏が爆破される映像のモンタージュ。音楽の使い方が特に最悪。
『ヘルプ・ミー・エロス』は、メインの風俗店の前にある消防署のようなポールの使い方などは面白いと思うし、ラリった主人公とヒロインが盗んだ車で夜の街をドライブしてスピード違反をするシーンに見られる、俯瞰ぎみの前進移動ショットや、そこで二人が立ち上がってねずみとり用のカメラに向かってポーズを取るところなどは面白いのだが、様式化されたファックシーン(まさにこの呼び名が相応しい)でかかる音楽のオリエンタリズム性や、随所に出てくるあまりにも分かりやすい性的象徴性を担った事物(蛇、象牙、とぐろを巻いたクッションなどなど)は正直いただけない。とはいえ『Hole』(ツァイ・ミンリャン)を想起させる唐突なミュージカル・シーンなどはそんなに悪くない。
シルヴィ・テスチュが出ているという理由だけで見に行った『食べよ、これは我が体なり』は、ファーストショットの空撮が見事なので少し期待させられ(ただし音楽はミスマッチ)、老女のキャメラ目線のモノローグのアップも迫力があるのだが、画面と音響の強度だけで勝負し、かなり健闘していると思われた作品も、中盤あたりからこれまでの幻想的なシーンが黒人召使の妄想という形に収斂していくあたりから徐々に中だるみし始め、黒人の子供たちが室内で戦争ごっこをするシーンで、要するにこれはハイチの近現代史についての寓話なのだと気づいてしらけ、それまでの室内場面の様式化された固定画面から、ラスト近くに祭りで道路に溢れ出す群集を手持ちキャメラで捉えた瞬間に、この映画の図式性を目の当たりにして、しかもラストショットはベッドで横たわる召使なのだから詰まらないこと、この上ないのだった(物語が再び彼の妄想という形で回収される)。