Classique=Moderne

hj3s-kzu2004-05-01

a)『カリオストロの帰還』(ダニエーレ・チプリ&フランコ・マレスコ)
b)『チューブ博士の狂気』(アベル・ガンス
c)『アッシャー家の末裔』(ジャン・エプスタイン)
d)『永遠の語らい』(マノエル・ド・オリヴェイラ
e)『キル・ビル Vol.2』(クエンティン・タランティーノ
a) イタリア版エド・ウッドの政治ヴァージョンといったところか。役者たちのオーバーな演技についていけず、興醒めした。後半、今までの喜劇調とはうってかわって、デヴィッド・リンチの映画から抜け出てきたような邪悪な感じの小人が狂言回しをつとめ始め、この物語の背後にあるシチリア黒社会の血塗られた歴史を語り出す。この構成があまり面白いとは思えなかった。個人的には『エド・ウッド』(ティム・バートン)の方が百倍面白いし、エド・ウッド自身が撮った映画の方が千倍面白い。この作品にも映画で政治的主題を扱う際の問題点が露呈している。
b) バカ映画。当時はもしかするとこの馬鹿馬鹿しさがアヴァンギャルドとか呼ばれたのかもしれないが(その辺、調べていないのでよくわかりませんが)、時代的な文脈を抜きにして現在この作品と素直に向き合ってみると、この馬鹿馬鹿しさが感動的ですらある。亀の頭のような禿頭のマッドサイエンティストが空間を歪める粉末を発明し、これを振りかけられた人たちは歪んだ時空の中に囚われてしまうのだが、これが何と凹面鏡に映った映像を撮影したものなのだった。その意味では、オーソン・ウェルズソクーロフと延びていく映画史的系譜の起源に位置づけられる作品なのかもしれないが、しかし博士の禿頭がのびることのびること。後年、『鉄路の白薔薇』、『ナポレオン』、『失楽園』といった傑作を撮ることになるフランス映画史上の巨匠の一人もやはり喜劇を撮ることから出発したんだなぁと感慨を深くした。博士の助手で、ワインをラッパ飲みするだけで仕事らしい仕事もしないちりちり頭の黒人少年を見ているだけで幸せな気分になれる。
c) 『Ecrits sur cinema』という分厚い映画理論の古典の著者としても知られるジャン・エプスタインによるこの古典は、確かに映像はフォトジェニックなのだが、致命的な事に女優がそれほど美しくないのだった。ギター、木々、波の映像などをモンタージュすることで私たちの耳に音楽を響かせようとしているのだが、その音色は残念ながらこちらの耳には届かない。映画に運動感が欠如しているのも致命的。キャメラを動かせばいいってものではない。同じポーものならロジャー・コーマンのリメイク版を推す。
d) 美しい歴史学者(レオノール・シルヴェイラ)は娘とともにパイロットである夫に逢いにボンベイまで船旅をするのだが、その途中の停泊地で遺跡巡りをする。地中海沿岸の空間的な移動がそのままヨーロッパ文明の起源へと遡行していく時間的な旅に重ねあわされるのだが、ヨーロッパ文明の臨界地点において、観客の誰もが予想するように、その旅は暴力的に断ち切られるだろう。
この作品は、レオノール・シルヴェイラらの遺跡巡りを描く自然光によるロケ撮影がメインの前半と、カトリーヌ・ドヌーヴステファニア・サンドレッリ、イレーネ・パパスといった大女優たちがジョン・マルコヴィッチ船長のテーブルを囲んで多言語の飛び交う「饗宴」を描く、おそらくセット撮影の後半とに大きく分けられる。
前半において、様々な遺跡が、時に画面外の声によって、時に同じ画面に収まった登場人物たちによって、見ている私たちに「解説」される。まさに「歴史の授業」(ストローブ=ユイレ)である。特に冒頭の出航直後のデッキに立ったレオノール・シルヴェイラ親子(この時、二人の視線は全く逆の方向を向いている)と彼らが見る記念碑とを切り返しで捉えた画面は、それがあまりにも厳密であるがゆえにかえって喜劇的な印象を与える。遺跡の映像とそれについてのコメントという律儀な対応が様々なヴァリエーションで反復されるのだが、それはもちろん最終的な破壊に向けての緊密な構築である。『家宝』がそうであったように。ただしこの前半における反復はほとんど常軌を逸しており、これに似たものを映画史の中に探すことは困難である。視線と声。その反復。また豪華客船が移動していることを示すインサートとして、それぞれの場面の間に、甲板からほぼ真俯瞰で捉えられた波をかき分けていく舳先の固定ショットが、同じアングル同じサイズで繰り返し挿入されるのだが、これなどは移動感を表象しているというよりは、ただ運動としてのショットそのものがあらゆる意味作用を離れて垂直に屹立しているかのような印象を与える(ちなみにこれに近いものとしては『伯爵夫人』(チャップリン)の同様のインサート・ショットがあるが、ただあの場合は明らかにセット撮影によるものだし、オリヴェイラでのような圧倒的な画面の強度のようなものもない)。果たしてこの船は進んでいるのだろうか、そんな疑問が浮かんでこないこともない。
後半における「饗宴」は、英語、フランス語、イタリア語、ギリシャ語という出演者それぞれの母国語が飛び交う空間でおこなわれる。例えばドヌーヴがフランス語で話し始めるとそれにサンドレッリがイタリア語で答えるといったぐあいに。果たして彼らは相手が語っている言語を本当に解しているのだろうか、そう思わずにもいられないのだが、何故か奇跡的なコミュニケーションが彼らの間には成立している。この磁場に変化が生じるのは、レオノール・シルヴェイラがこのテーブルに招かれた瞬間である。それまで四人が共に席につき、それぞれの視線がほぼ水平に保たれていた空間が、彼女とその娘が席につき、マルコヴィッチ以外には理解することのできないポルトガル語(興味深いことにオリヴェイラはもちろんポルトガル語しか解さない。その事実を私たちはさきの小津シンポジウムで目の当たりにしたはずだ)を話し始めるやいなや、その均衡状態を崩し、マルコヴィッチは彼女の脇に立ったままの姿勢で、「英語」(現代の「普遍言語」としての)で会話をしようではないかと提案し、皆もそれに応じる。その時、「英語」を母国語としている彼は他の人物たちの平面に対して垂直の位置にある。こうして彼らは英語でコミュニケートし始めるのだが、ただ一人シルヴェイラの娘だけはそんなことを意に介さずポルトガル語で無邪気な質問をしたりする。ここで彼女がマルコヴィッチからプレゼントされるのがアラブの少女をかたどった人形であることは興味深い。さて一時的に撹乱された空間はどのようにして均衡を取り戻すだろうか。それは西欧文明の起源であるギリシャを切り離すことによってだ。マルコヴィッチの懇願によってイレーネ・パパス演じるギリシャ人歌手は大広間の船客たちを楽しませるために、席を立ち、一曲歌い始める。それとともにマルコヴィッチはテーブルにつき、「饗宴」の空間は「英語」によって再び水平の均衡を取り戻し始める。しかしまもなく不吉な知らせがその場に齎されるだろう。しかしそれまでの猶予の時を彼女の美しい歌声を聴いて過ごそう。バベルの塔が崩壊するまで。