蓮實重彦とことん日本映画を語る vol.8

hj3s-kzu2004-04-30

a)『囚人を見ているのかと思った』(ハルーン・ファロッキ
b)『遠くの戦争』(ハルーン・ファロッキ
これらについては、来週のファロッキ特集の時に一緒に書くつもり。会場で偶然、来週の特集でトークショーをなさる赤坂大輔氏と渋谷哲也氏のお二方に会ったのでお茶をする。なおハルーン・ファロッキについて日本語で読める資料としては「現代思想 2003年6月臨時増刊号 総特集 ハリウッド映画」所収のファロッキ自身による「管理する視線」というテクストと訳者による解題があるので参照のこと。
イメージフォーラム・フェスティバル2004
http://www.imageforum.co.jp/festival/index.html
New Century, New Cinema vol.2@アテネ・フランセ文化センター
http://www.athenee.net/culturalcenter/schedule/2004_sche/event04_07.html
                    *
蓮實重彦とことん日本映画を語る vol.8」を聴きに行く。今回のお題は、《考古学的考察:「動くキャメラ」と「動く被写体」―日本映画の場合―》となっている。以下、記憶を頼りに再構成してみたい。例によってメモは取っていないので悪しからず。
蓮實氏は言う。リュミエール兄弟は教祖のような面があって、世界各地に使徒=キャメラマンを派遣する際にいくつかの主題を彼らに与えた。その一つが「列車の到着」で、これはいわば映画の考古学的主題とも呼べるもので、リュミエール兄弟自身の『シオタ駅への列車の到着』の他に各国で撮られた様々なヴァージョンの「列車の到着」がある。日本でもやはり『列車の到着』と題された作品が撮られていて、場所は「名古屋駅」であるらしい。オリジナル版と「名古屋駅」版との大きな違いは、前者がリュミエール家の人々が出演している演出された作品であるのに対し、後者はまさにその時そこにいた一般の人々を撮った記録映画的なものであることである。さて、この二つは「動く被写体」を固定画面で捉えたものだが、その他に映画が運動を表象する場合、例えば列車の中に据えられた「動くキャメラ」によるもの、つまりトラヴェリング(移動撮影)が他に考えられる。トラヴェリングには縦横の二方向があり、これらもそれぞれリュミエールの時代に『エクス・レ・バンへの列車の到着のパノラマ』(横移動)、『トンネルの通過』(縦移動)といった作品ですでに試みられている。
次に日本映画に目を転じてみよう。サイレント映画の表現が頂点に達した年である1927年に撮られた『黄金の弾丸』(印南弘)には、当時のハリウッド映画顔負けのカーチェイスのシーンがある。先ほどの三つの要素以外で、このシーンで新たに看て取ることができるのは、「動く被写体」(自動車)と並行して走る「動くキャメラ」の移動ショットである。これで運動を表象するための技法は全て出そろった。例えば今日の映画に見られるようなカーチェイスのようなものもこれらの組合せによって表現できる。
これに似たものを溝口健二のような人も同時代的に撮っている『瀧の白糸』の冒頭の馬車の場面がそれである。また馬車の運動というのは映画と相性が良い。それはリメイク版の『滝の白糸』(野淵昶)の冒頭の場面によっても確かめられる。
交通機関と映画との相性の良さを確認したところで、次にバスと鉄道を日本の映画作家がそれぞれどのように表現したのか見てみたい。
まずバスであるが、これを最も得意とした映画作家は言うまでもなく成瀬巳喜男である。『秀子の車掌さん』という高峰秀子のバスガイドをヒロインにした魅力的な作品があるが、ここでは『めし』と『稲妻』のバスのシーンを見てみる。ともに画面としては、後方通路からバスガイドとその背後に広がる外景の前進移動ショット、乗客を捉えたバストショット、車窓から外を捉えた横移動ショットの組み合わせからなっている(『稲妻』では移動するバスを外から捉えた固定画面がそれらに加わる)。成瀬を高く評価していた小津安二郎はこの二作品を見ていたはずだが、成瀬が得意とした細部描写(例えば車酔いする乗客)を捨象して純粋な運動にまで抽象化したのが『東京物語』の名高いバスのシーンである。ここでは乗客たちは一様に同方向に視線を向け、バスの移動は抽象的な乗客の揺れに還元されている。
次に鉄道を何人かの映画作家の作品からの抜粋で見てみよう。『お茶漬けの味』(小津安二郎)では、夫のもとから出奔した木暮実千代は一等の展望車に乗るのだが、そのほとんど外気と接した車内から見える鉄橋をやや仰角気味に捉えた後退移動ショットはその音響と相俟って圧倒的な迫力を持っている。『天国と地獄』(黒澤明)の名高い急行列車のシーンでは、その持続をつくり出しているのは列車の走行音である。このシーンで興味深いのは、土手で待ち構えている犯人たちを捉えたショットが車内にいる三船敏郎や刑事たちの位置から見られるはずの映像とはアングルが微妙に異なっている点である(非人称的?)。ここで残念なのは、身代金を放り投げるわずか「7センチ」の窓の隙間という内部と外部が通底する映画的な装置を設定しておきながら、黒澤明がその窓を開いた瞬間に風が舞い込むといったような細部の演出を施していない点である。『乱れる』成瀬巳喜男)においては、運動の表象がある種のエロティシズムにまで到達している。それはもちろん郷里に列車で帰る高峰秀子加山雄三が付いてくるシーンである(関西から東京を経由して東北へと向う道のりを描くこの長い場面において、初めは席がなく離れて立っていた加山雄三が旅が列車の進行とともに徐々に高峰秀子との距離を縮めていき、ついには彼女の向い側に座り、夜が明け、朝靄の中を走っていく列車を捉えた固定画面の後に、叙情的な音楽の中、彼の寝顔を見つめる高峰秀子のクローズアップに繋がる画面連鎖は官能的と言う他なく、ついには潤んだ瞳の彼女は目覚めた彼に向って「次の駅で降りましょう」という決定的な一言を呟く)。『千曲川絶唱』(豊田四郎)にあっては、並行して進む列車とトラックの運動が魅惑をもたらす(白血病のトラック運転手の北大路欣也は、看護婦の星由里子が郷里に帰るという話を聞いて駅に向うが、一足先に列車は発車した後である。彼はトラックに飛び乗って全速力で列車を追いかけ、窓から大声で彼女に呼び掛ける。ここで彼女が立っているのが車両の連結部という外気に接したところであることが、この場面に爽快感をもたらしている。彼女はなかなか気づかないのだが、気づいた瞬間、それまで北大路欣也の側から撮られていた彼女の背後にキャメラが回り込み、彼女の肩ごしに疾走するトラックを捉える切り返しは感動的である)。
こうしてリュミエールから始まって様々な映画作家のアプローチを見てきたわけだが、最後にこの問題に現代作家たちがどのように取り組んでいるのかを見て見たい。まず『川の流れに草は青々』(侯孝賢)のラストシーンでは、列車とそれに並走する子供たち(!)が描かれており、ここでもやはり異なる運動が同一の画面に収まることの魅惑が生じている。つぎに『CURE』(黒沢清)のバス。この空中を滑走しているかのような密閉空間は、もはや現代においては成瀬のようなバスは撮れないとの認識に基づいている。この考え方に真っ向から正攻法で挑んでいるのが『ユリイカ』(青山真治)の冒頭のバスである。そしてここにおいてはバスとはもはや幸福感に彩られた楽天的な空間ではなく、惨劇の舞台である。だからこそ、この映画の後半においてもう一度、世間から隔絶したかのような移動するバス空間が反復されなくてはならないのだ。そして最後に韓国の新星、チョン・ジェウンの『子猫をお願い』で、少女たちが乗るバスを見て終りにする(このシーンにおいてはバスは彼女たちが乗るショットで姿を見せるだけで、続く画面ではおそらく車窓から撮られた夜の街の様々な表情が短くオーバーラップされる)。
このようにして今回のトークショーは終わった。なお『子猫をお願い』は必見!とのこと。