Godardへの手紙

以下に読まれるのはid:Godard:20040505への返信。
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id:Godardさん、まずは拙作『吉野葛』への長文の批評どうもありがとう。この作品についてはいろいろな人から意見を聞いたが、今のところ、君の批評が最も面白いし、もし私がこの映画を見たことがなかったら、ぜひとも見てみたいと思わせるものだった。もっとも残念なのはこの映画が「傑出した映画」ではなくて「ヘンな映画」だということなのだが、これは自分が一番よく分かっている。見事なことに君は私の「亡命願望」まであの批評で見抜いている。この願望はかなり幼少の頃から私の中に芽生えたものだ。

で、話は私のコメントに対する君の返信に移るわけだが、これまたかなりの分量で、これを書くために失われた君の睡眠時間のことを考えるととても申し訳ない気分になった(普段からあまり体調がよくないことを知っているので)。そこでまず準備作業として改めてじっくりと君の『エレファント』評を読み直したわけだが、よく読むとこれがまた、君が自負するように実にキチンと書けているものなのだった。うろ覚えで性急なコメントを書いてしまったことをお詫びする。ただしやはり今回読み直してひっかかったのが、「民主主義」という言葉の使われ方で、おそらく君はこの言葉を「平等」というくらいのニュアンスで使っていると思うのだが、ならば特にこの言葉を使う必要はないだろう。もしこの言葉を使う必要があの批評にあったとしたら、そこでは表面に顕われてはいないが、もしかすると君が無意識のうちに感じていたであろうある事柄をあらわすためではないだろうか。

ではその事柄とは何か(これはあくまで私の推測に過ぎないので間違っていたら指摘してほしい)。『エレファント』はすでに御承知のように、前半の複数の視点からの日常の記述が、事件の勃発とともに単数の視点からの事件の記述へと収斂していく過程の物語である。厳密に言うと事件が起こっている最中にも被害者の視点というのは適時、挿入されているのだが、最終的に生き残るのは犯人のみ(ただしあのようなエンディングで終わっているのでそれも曖昧)なので、そう単純化しても構わないだろう。君のこの作品に対する批判は主にこの点に関わっているように思われる。なぜ最後まで「民主主義」を貫かないのか、と。複数の視点から単数の視点へ。これは言い換えれば、この映画は、競合する「複数の小さな物語」のうち、最終的にそのうちの一つが「単一の大きな物語」として勝利をおさめる、という構造を持っているということではないだろうか。もしそうだとすれば、それはそれで十分に「民主主義」的なのである。

御承知のように、1929年の世界大恐慌の余波を乗り越えるために、各国で強大な権力が必要とされ、それがスターリニズムだったり、ファシズムだったり、はたまたルーズベルトの「民主主義」だったりするのだが、倫理的な判断を抜きにしてその形態を眺めるならば、それらはいずれも「民主主義」的な手段によって成立した「民主主義」的な政治体制だったのだ(ここで問題なのは「民主主義」というのが、ある集団の「内部」に対してのみ適用されるものだという点だ。ここでブッシュ・Jrに話をつなげれば、彼もまた合衆国内部では十分に「民主主義」的な存在であり、彼を非難するためには、「民主主義」ではなく、「世界市民」という観点を導入する必要があると思われる)。なぜこんな話を持ち出すかと言えば、君が正しくも「『Elephant』(巨像)とは「ALEX」でも「ERIC」でも「銃社会」でも「アメリカ」ですらない。紛れもない「民主主義」の中に潜む「怪物」のことなのである」と指摘しているからだ。古代ギリシャの昔ならばいざしらず、近代以降の「民主主義」は「代表制」を基盤に置いている。「秘密投票」によって選出された「代表者」が「民意」を反映するというわけだ。ただしこの制度の問題点は実際のところ、選出された「代表者」が反映している「民意」というものが一枚岩ではなく(社会にはさまざまな「階級」とその利害がある)、しかも彼を選出した人々の「民意」に反する行為を「代表者」がする可能性があり、それに対して罰則規定もないし、そもそもが「秘密投票」なので彼を選出した人々と彼とは原理的に切り離されていることだ。そしてこれは日常、私たちが毎日のように目にしている現実である。話を戻そう。『エレファント』の前半において採用された「民主主義」的な並列される複数の視点は、後半の「代表者」による単数の視点へと収斂されることによって、一層その「民主主義」的な本質を露にすると言えないだろうか。しかも念の入った事に、この「代表者」は「民意」に反する行為(ジェノサイド)までやってのけるのだ。何と醜いまでに現実に酷似していることか!と私は慨嘆せずにはいられないのだが、どうだろうか。

おそらくついつい「疑似抽象性」などと筆が滑ってしまったのは、君の批評における「民主主義」という言葉の使われ方の不十分さに対する不満が私の中にあったからだろう。また「この時期に『エレファント』という映画を「みる」=「書く」ということは、同時に「アメリカ」を「みる」ということであり、「映画のみをみる」ということは「映画に閉じている」ことに他ならないと思います。そして『エレファント』は世界に開かれていたいがために空を映していたはずなのです」という性急な断定にも疑問を感じる。まずは映画を徹底的に「みる」こと、もしかしたら、その果てで現実との接点が見出せるかもしれないことは私も認める。しかし、君の性急さは『エレファント』を「みる」ことと「アメリカ」を「みる」ことを留保なしに結び付けていて、映画の外に目を向けるという身振りが、実は映画そのものを「みない」ことの口実として機能しているような感じがした。

「『エレファント』は世界に開かれていたいがために空を映していたはずなのです」という君の表現はとても美しい。しかし「映画が世界に向って開かれる」ことと性急に「映画と世界を結び付ける」こととはやはり別のことだ。

最後になるが、『ロスト・イン・トランスレーション』についての君の批評がついに読めなかったのは残念。ぜひ書いてもらいたい。あとこれは冗談なのだが、「優れた映画は必然的に「みる」ことに人を向わせる」という私のテーゼがもし正しいとすれば、君をあれだけ「みる」ことに向わせた『吉野葛』もまんざらではないかも。あとこれはどうでもいいことなのだが、最後に私が朗読していたテクストは『ドイツ・イデオロギー』です。