フレッド・タンを(再)発見しよう

a)『離魂』(フレッド・タン)★★★
b)『怨みの館』(フレッド・タン)★★★


1990年にまだ41歳の若さでこの世を去ってしまった台湾の映画作家フレッド・タンが残したたった三本の映画のうち、『離魂』(1987)は第二作、『怨みの館』(1988)は遺作にあたる。この二本の作品に通底する主題はまさに『怨みの館』の原題『怨女』が示しているように、叶わぬ愛ゆえにこの世を憎悪するようになった女性の底知れぬルサンチマンである。そのルサンチマンの器となる女性は『離魂』のように幽霊である場合もあれば、『怨みの館』のように生身の女性である場合もあるが、フレッド・タンの作品世界においては両者の差異はほとんどないといって差し支えない。実際、ヒロインの現代舞踏家にとり憑いて離れない、恋人の裏切りによって無惨な死に方をした女の幽霊はほとんど生者のように他の登場人物と同じ時空間に存在しているように見えるし、一度は自殺未遂を謀ったはずの『怨みの館』のヒロインは、天井から垂れた紐に首をかけたと思いきや、次のカットでは何ごともなかったかのようにいきなり数年が経過していて、その間に彼女に辛い仕打ちをしていた姑と不具の夫が謎の死を遂げており、この時間の飛び方はどう考えても異常としかいいようがなく(『十字路の夜』(ルノワール)のようにひょっとしたら途中の巻が欠けているのではないかと勘ぐりたくなるほどだ)、ことによるとそれ以降に登場する彼女は実は幽霊なのではないだろうかという疑いが最後まで離れない。というのも息子を溺愛するあまり、嫁いできた嫁をただ醜いというだけの理由で苛め抜き、さらに病床に臥せったその彼女に呪詛を吐きつけるその憎悪の在り方はとてもこの世の人間とは思えないからだ。自動車に何度はねられてもその前に立ちはだかることを止めないあの恐るべき『離魂』の幽霊のように、フレッド・タンの「怨女」たちはその無限に反復されるルサンチマンの機械を停止することはない。彼女たちを見ていると「因果応報」とか「業」とかいったものが物質的にそこに存在しているような錯覚に襲われる。本来は「女の一生」的な「文芸映画」として撮られ、ホラー演出がなされているわけではない『怨みの館』が恐ろしいのは、婚礼のために人力車で運ばれ、その遮蔽幕の中から姿を現わす不具の夫(近年の侯孝賢の作品の常連である高捷が演じている)を私たちが目にする時、何とも知れぬあのいやな感じとともに、そこに運命の歯車が微かな音を立てながら作動する瞬間に触れてしまうからだ。なお両作品とも録音を担当しているのは侯孝賢の作品でお馴染みの杜篤之である。必見!


(追記)この二作品は5/7に上映される。詳しくはこちら
台湾のホラー番長=フレッド・タン上映会@映画美学校
http://jbbs.livedoor.jp/movie/3113/eigabi.html#6
一足先にこれらの作品を見せてくれた映画美学校上映講座有志の皆さんに感謝します。