魅せられて

谷崎について自分が書くなら『吉野葛』についてだ、と蓮實重彦氏が述べたのは、1993年の「國文學」の谷崎潤一郎特集号の小森陽一との対談においてである。*1新著『魅せられて』のために書き下ろされたという「厄介な「因縁」について 『吉野葛』試論」と題された小論を読み始めた時、そのことがすぐに思い起こされた。つまり蓮實氏は12年間もこの主題を巡って考えてきたということだ。そのことにまず感銘を受けた。『吉野葛』というテクストに刻み込まれている「話者」の「私」と「作者」である谷崎との時間と空間の微細なズレを丁寧に追っていきながら、「書く」ことの「現在」が「語る」ことを次第に凌駕していき、ついには「作者」の「話者」に対する勝利(その結果、「物語」の破綻が生じる)が高らかに宣言される過程を検証する様はとてもスリリングである。「小説の書かれた言葉は、「語り」の構造に対してたえず過剰であるか、あるいは希少なものとしてあり、作品が過不足なく物語の構造におさまることを回避するものだからである。」という一文に見られるように、「語り」に対するズレそのものとしてある「小説」とは、何と「映画」によく似ていることだろう。「撮る」ことの「現在」が「語り」を凌駕する可能性を夢みること。
この小論では『吉野葛』の魅惑に満ちた細部の描写について詳しく言及することが禁欲されているかにみえるが、欲を言えば、そうした言葉の襞にあられもなく惑溺した蓮實氏の姿が見たかった。もっと長い『吉野葛』論が読みたい。
なおこの書物のタイトルが、ジュディ・オングやベルナルド・ベルトルッチではなく、マックス・オフュルスに由来することは言うまでもない。

魅せられて──作家論集

魅せられて──作家論集

*1:この対談は『魂の唯物論的な擁護のために』に収められている。