ジャン・ドゥーシェとことん溝口健二を語る

昨日の溝口健二シンポジウムでは短時間でのスピーチという制約のためか、ジャン・ドゥーシェによる溝口論が充分に展開されているとは言いがたかったが(もちろんそれが素晴らしいものだったのは言うまでもないが)、今日、映画美学校で行われた彼の特別講義は、ショット分析によって溝口の本質を炙り出していく見事なもので、昨日のスピーチの物足りなさを一掃してくれた。彼の分析は微に入り細をうがつもので、その全貌を報告することは私の能力を超えているのだが、せめてその一端でも伝えられればと思う。以下、私なりのレジュメ。
講義で使われた作品の抜粋は三つ。まず『祇園囃子』から木暮実千代河津清三郎に懇願されて、役人の小柴幹治と寝ることを受け入れざるを得なくなるシーン。次に『新・平家物語』から大矢市次郎木暮実千代市川雷蔵が自分の本当の父親は誰だと詰め寄るシーン。最後に『赤線地帯』から木暮実千代が夫の丸山修と一緒にラーメンを食べに行くシーン。選ばれた抜粋のうち、特に『祇園囃子』と『赤線地帯』からのものは、「溝口=長回し」という紋切り型に対し、彼がカット割りの名手であることを示すのに充分なものなので、ぜひ実際に見ていただきたい。
溝口の画面は演出の軸(それはまなざしの軸であり、欲望の軸である)とキャメラの軸が織りなすV字型によって形づくられている。『祇園囃子』からの抜粋の起点をとなる画面はその端的な例である。左右を障子と壁に挟まれた中央奥に木暮と河津が立っている。キャメラの軸は向かい合う二人が作る軸に対して、斜めに向けられている。ここで木暮の顔が遮蔽物によって隠されていることに注意しておこう。次の画面で二人は和室から廊下に出て、そこからキャメラ手前まで歩いてきて画面右手に曲がって立ち止まる。それをキャメラはパンで追う。パンの終点で最初キャメラに顔を見せていた二人は、まず木暮がキャメラに対してくるりと背を向け、それにつられて河津も木暮に向ってキャメラに背を向ける。次のショットでは、このシーンの起点となった画面とは逆に左右を蚊帳のような幕で被われた画面の中央に座る木暮の姿だけがはっきり見え、その奥に小柴がやってきて腰を降ろす。さらにカットが変わり、今度は小柴を画面右下にそれ以外の二人を画面左上に配置したやや俯瞰ぎみのショットとなる。ここで河津がフレームアウトし、小柴と木暮を結ぶ対角線が欲望の軸となる。この軸が形成されるやいなや、今度は小柴の目の前にある鏡の中に文字通り「とらえられた」二人の姿(これは前の画面の位置関係と左右が逆転しているだけになおさら衝撃的である)のショットとなる。木暮は小柴の欲望に満ちたまなざしから身を隠すようにくるりと身体を回す。
新・平家物語』からの抜粋はワンシーン=ワンショットで撮られているが、このシーンの開始を告げるのは、大矢と木暮の座る居間の奥の廊下を横切る侍女たちの運動である。木暮から責められている大矢は、彼女に対して斜めの角度でキャメラに正対している。そこに画面奥から雷蔵がフレームインし、立っている彼と座っている二人によって、画面にまず正三角形が形づくられる。雷蔵も腰を下ろし、彼は木暮を難詰めし始める。ここで木暮と大矢が結ぶ軸に対する観察者としての雷蔵の位置を、今度は大矢が身体を回転させることによって引き受け、雷蔵と木暮が結ぶまなざしの軸に対する観察者となる。次に雷蔵の言葉に憤激した木暮が立ち上がり、雷蔵は彼女を見上げて懇願の姿勢をとる。ここでキャメラが右に横移動することで大矢がフレームから排除される。ここで木暮はキャメラに背を向け、フレームから頭が切れているために、彼女の女性性が背中に垂れる豊かで長い黒髪によって強調されている。彼女が家を出て宮廷に仕えること、それは彼女が「高級娼婦」となることに他ならず、彼はそれを全力で阻止しようとするのだ。このツーショットでの二人はまるで恋人同士のように演出されている。木暮は隣の間に移動し、なおも雷蔵は彼女にとり縋る。キャメラもそれを追い、そこで静止する。懇願が効かず、彼女が画面奥に向って進むと、今度は雷蔵が彼女を突き倒し、二人の位置関係が逆転する。溝口において人が横たわるとき、そこには近親相姦の欲望が作動している。彼女は立ち上がり、左にフレームアウトする。画面中央奥に雷蔵がひとり取り残され、彼女の去った方向を見つめている。そこに画面左から右に彼の弟たちが母の後を追って画面を横切る。彼らの運動はまさにこのシーンの起点となった侍女の運動を反転させたものであり、このシーンの終りを告げるものである。
『赤線地帯』からの抜粋では、最初のショットの木暮の仕草に注目してもらいたい。丸山と二人で画面の奥に去っていくとき、彼女はトントンと自分の背中を叩く。彼女は売春を生業としており、腰痛持ちで、肺病の夫のために自ら望んだわけでもない仕事よって疲労しているのである。この簡潔な仕草によって溝口は彼女の全てを表現している。続くラーメン屋の店内、ここでは溝口が腰掛ける人物をどのように演出しているかを見なくてはならない。というのも二人がいる空間は日本間ではなく、洋間だからであり、畳に座るのと、椅子に座るのとでは、当然、撮り方が変化せざるを得ないからだ。二人は土間から一段高くなったところにある座敷の縁に腰を下ろす。丸山が二人の間に火鉢を引き寄せる。ここで赤子を抱えた木暮は画面左端のテーブルと中央の火鉢によって文字通り身動きできない状態になっており、これは物語上での彼女の状況に視覚的に対応している。疲れ切った彼女のセクシャリティをわずかに示しているのは、ローアングルによって見える彼女の両足である。二人の間の卓上にウェイトレスがラーメンを運んでくる。このウェイトレスによって木暮は一瞬、キャメラから身を隠す。次に木暮の背後からのより近づいたサイズのツーショットとなる。ここでも二人を結ぶ軸に対してキャメラの軸は斜めに交叉している。肺病の夫から哺乳瓶を受け取った彼女はそれを火鉢で温め、温度を確かめるためにそれを口にする。ここでの彼女には肺病が伝染することなど心配していない無邪気さがある。病人で失業者の彼女の夫は、自分が厄介者であるにもかかわらず、彼女の売春への非難をほのめかし、がつがつとラーメンを食らう。溝口の男たちは、このように自分たちの「負い目」を女たちに転移するのだ。彼女は夫に向き合うために一度立ち上がって身体の向きを変える。このとき彼女の後ろ姿が画面を被う。そして今度は夫の側からの切り返しショットとなるのだが、アクションを介したこの繋ぎは映画史上最も美しいものである。彼女は同僚の母子関係を語りながら、そこはかとない希望を持ってわが子を見つめる。ラーメンの湯気が彼女の眼鏡を曇らせ、彼女は赤子を片手で抱え、箸を持った方の手のひとさし指でそれを拭うという不自由な姿勢で、数口ラーメンを啜ってから、残りを夫に与える。すでに自分の分を食べ終えていた彼は当然のようにそれを受け取って食べはじめるというイロニーに満ちたショットでこのシーンは閉じられる。
ドゥーシェの講義の途中で、ビクトル・エリセが姿をみせ、十分ほど簡単なスピーチをして帰っていった。それは昨日のスピーチのように感動的だったのだが、要約するならこうなる。自分もかつてはやはり映画学校で映画を学んでいた。しかし最良の先生は、映画館で映画を見ることそれ自体であった、と。なお溝口の中で必見の一本はという客席からの質問に対して、彼は「全て」と答えた(これはドゥーシェと同意見)。
これを受けて最後にドゥーシェが「見ること」の重要性を強調し、今回の講義は終わった。
なお彼が書いた二つの溝口論は『L'Art d'aimer』という著作の中に収められている(未邦訳)。また「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」No.20には「ジャン・ドゥーシェによる映画教育」という短いテクストがあるので、そちらも参照のこと。
また溝口に関して日本語で読める参考文献として「ユリイカ 1992年10月号 特集・溝口健二」をすすめておく。これには溝口自身の談話や、ゴダールロメール、リヴェットら彼に影響を受けたヌーヴェルヴァーグの映画作家たちによる溝口論、その他にスタッフ・インタビューなどが収められており大変有益。

溝口健二 大映作品集Vol.1 1951-1954 [DVD]

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