a)『錨をなげろ』(船曳真珠)△
b)『second coming』(吉田雄一郎)×
「アクション映画」とは、映画の本質を体現する高貴なジャンルを指すので、「アクション」もろくに撮れない人間が軽々しく、自作を呼ぶのにこの言葉を使ってはならない。
前置きはさておき、『錨をなげろ』についてはすでに書いたのでそちらを参照のこと(id:hj3s-kzu:20080330)。
『second coming』については、やはり35ミリはいいね、という以上の感想はない。前作『浅草の姉妹』のときにも感じたのだが(id:hj3s-kzu:20080208)、ダンボール箱とかゴミ袋とか鉄パイプとか飛び降りとか黒沢清作品の上澄みだけすくってきたようなアイテムを見せられるのはいい加減うんざりである。やめてもらいたい。黒沢清がなぜそうしたのかを考えてみること。極東の島国にたまたま生まれてしまった才能豊かな映画作家が「アメリカ映画」という巨大なメインストリームを横目で睨みつつ生み出した手段の数々が*1、この『second coming』の作者にあっては単に必然性を欠いた模倣の対象でしかなくなっている。この作者に徹底して欠けているのは、このメインストリームに対する意識である(「映画的教養がない」ともいう)*2。であるがゆえに「基礎体力」に属する部分のアクション場面が惨憺たる有様になっている。

*1:つまり悪戦苦闘の果てに。

*2:ついでにいうと「映画的知性」も。