吉田喜重からセザンヌへ(そしてスザンヌの彼方へ)

a)『河の上の愛情』(ジャ・ジャンクー)△
b)『可視から不可視へ』(マノエル・ド・オリヴェイラ)×
c)『ウェルカム・トゥ・サンパウロ』(アモス・ギタイ、ツァイ・ミンリャンミカ・カウリスマキ吉田喜重、レオン・カーコフほか)×
d)『サバイバル・ソング』(ユー・グァンイー)○
フィルメックスの『ウェルカム・トゥ・サンパウロ』と『サバイバル・ソング』の間がかなりあったので横浜美術館まで足を運んで「セザンヌ主義」展へ。*1セザンヌと彼に影響を受けた同時代の洋邦の画家の作品を並べて展示したもので、こうしてならべてしまうとやはりセザンヌの圧勝という感じでやや気の毒になる。たっぷり二時間かけて見たが、おかげで『サバイバル・ソング』に数分遅刻してしまった。しかしセザンヌの画の密度は圧倒的でそれらの要素をいちいちときほぐしながら見ていくようなことをしていくと映画を見るより疲れる(そのため『サバイバル・ソング』でうとうとしかけた)。そういえば何年か前にやはり横浜美術館で「セザンヌと日本」展を見た時にはロビーのモニターで吉田喜重の『美の美』のセザンヌ編が流れていたような記憶があるのだが、今回はフツーのビデオ撮りの解説映像だった(なのでスルー)。たしか横浜美術館って『美の美』を所蔵してなかったっけ。だとしたらなぜそれを活用せんのだ、もったいない。*2
さてジャ・ジャンクーの新作短編は、ここ数作の弛緩した自堕落な体たらくに比べるとやや回復の兆しは見えるが、やはりオリエンタルな要素に依存し過ぎだし、そもそも内容がなさ過ぎる雰囲気映画(ただし画面はよい)。*3
まさかオリヴェイラの作品に×をつける日が来ようとは思っても見なかったが、これは明らかに手抜きの、欧米の映画学生あたりがつくりそうなしょうもない作品。せめてフィルムで撮られていたらもう少し見られるものになっていたのかもしれない。
『ウェルカム・トゥ・サンパウロ』は、お金と時間の無駄(見る側にとっても撮る側にとっても)。ビッグネームを並べただけのオムニバス作品というと前回のフィルメックスで上映された『それぞれのシネマ』がすぐに思い浮かぶが、あれも一部の例外を除くとしょうもない作品だったとはいえ、この作品はその遥か下のレベル(それを考えると東京国際で見た『世界の現状』の粒ぞろいぶりはやはり特筆に値する)。観光客が撮ったビデオ映像をただ音楽に乗せて垂れ流しているのと大差はない。相対的にましなパートでもよくできたミュージッククリップの域を出ていない。唯一、見るに値すると思われたのは吉田喜重のパートで、日系ブラジル移民三世の中年のウェイトレスに岡田茉莉子がインタビューするだけの作品なのだが、このウェイトレスの顔がまさにキャメラのレンズを通すことで輝くタイプの顔で素晴らしい。であるがゆえに、カットを細かく割って岡田茉莉子に切り返す必要はなかったと思うし(明らかに存在感において岡田茉莉子は負けている)、さらにいえば彼女ではなく吉田喜重自身がインタビュアーになった方がさらによい作品になったのではないかと惜しまれる。*4また音処理が粗雑なのもウェイトレスの顔を捉える画面が素晴らしいだけに残念。またアッバス・キアロスタミはどうやらこの作品のオファーを受けなかったようだが、彼の選択の聡明さが際立つ結果となった。各パートの合間にカエターノ・ヴェローゾの声でブラジル史が語られるのだが、この映画を一本見るよりは彼の朗読の入ったCDを聞いた方が遥かによかった(あるいは黒画面でこの朗読だけ流すとか)。ブラジルの観光局用のPR映像としては使えるかもしれないが(例えばサンパウロ行きの旅客機のモニターで流すにはいいかもしれない)、吉田喜重のパートを除くとこれは映画ではない。こんな作品を選定したプログラマーの見識を疑う。上映後に拍手が起きていたが、あれは本気なのだろうか。だとするとお人好しにも程があると思うのだが。お義理で拍手などせず、つまらない作品には観客もはっきりと意思表示をすべきだと思うし(ブーイングするとか、席を蹴って出て行くとか、まあ私はしませんけど)、それが映画祭の質の向上にも繋がるのではなかろうか。ともあれ拷問のような二時間であった(椅子固いし)。
『サバイバル・ソング』は前作『最後の木こりたち』が持っていたある種の活劇性には欠けるが、その分ユーモラスな部分が増えた。やや頭の足りなそうな主役格の男や動物たちに向けられる眼差しが素晴らしい。ただ前作に比べると構成的にやや散漫な気もした。とはいえ、やはり現在の中国ドキュメンタリーの質の高さを示す一本ではある。

*1:ところで横浜美術館のロッカー室の側で「スザンヌ主義」というのをやっていたのだが、あれはいったい何だったのだろう。スザンヌってあのスザンヌ?時間がなかったので未確認。

*2:そういえば、以前『よろこび』(松村浩行)がエクサン・プロバンス映画祭に出品された時に、松村くんに同行して現地まで赴いたのだが、上映の合間に時間が空いたので二人で街を散歩したら、セザンヌの生家の前に辿り着いたことを、これを書いていて思い出した。

*3:天安門、恋人たち』の主演の二人を起用していることや、監督自身が1970年生まれということから考えて、作中で言及されている「この世代」というのがまさに1989年の天安門事件をリアルタイムで経験した世代を指していることはおそらく間違いないと考えられるが、そのことを言外にほのめかし、かつそれをメロドラマ的設定のための口実として利用しているだけのこの作品は、やはり「この世代」に属し、その経験を反芻しつつ今も特異な作品づくりを続けている『NOISE』の王我の試みを傍らに置いてみた場合、やはり誠実さを欠いていると思う。「公認」の映画作家となってしまったジャ・ジャンクーとは違い、「非公認」の映画作家たちへの政府の抑圧は今も続いているし(彼らの作品は国内では公式には存在しないものとして扱われている)、「あの事件」は彼らにとって決してノスタルジアの対象ではなく、現在の闘争の出発点そのものなのだ。

*4:さらに言うと岡田茉莉子の口から「観光」の一語がついうっかりと洩れてしまった瞬間は、このオムニバス映画の本質を無意識的にずばり言い当ててしまった危うさがあり、見ていてハラハラした。また最後の社交辞令のような言葉もいらなかったのではないか。