略してイン・パブ

a)『イン・パブリック』(ジャ・ジャンクー
b)『小山の帰郷』(ジャ・ジャンクー
b) ジャ・ジャンクーが映画学校時代に自主製作で撮った処女作。現在世界的に注目を集めている映画作家の才気溢れる華麗な作品、といったものでは全くなく、ただもうぶっきらぼうとしか言い様のない映像と音響の連なり(特に音関係が技術的には拙劣)が、ほとんど何も起こらない物語とともに、うら寂れた北京の外れの荒涼とした風景のなかに展開される。この73分の持続が見たものの多くにある種の「退屈さ」を強いたことは、上映直後に漂っていた疲労を伴ったけだるい会場の空気でそれと察せられたが、にもかかわらずこの作品は面白い。人が「映画」という言葉で想像しがちな映像と音響と物語の安易な共犯関係へのもたれかかりをきっぱりと拒絶したこの孤高の作品は、何げない日常の風景の中にいかにフィクションを作動させるか、という一点に賭けられており、そのためにはキャメラと俳優の身体があればよい、という確信に支えられ、映像美だの巧みなプロットだの映画史的な記憶だのといった贅沢品はゆえに断念されている。この映画作家は初めから世界の方を向いていたのだ。ときおり挿入される状況説明の字幕も才気ばしった気どりではなく、彼の映画との齟齬を際立たせるばかりだ。映画学校を出た秀才に碌なものはいない。それは現在のフランス映画の若手の頽廃ぶりをみればわかるだろう。ヌーヴェル・ヴァーグ以降の映画史とは映画学校に入れなかった人間とそこから落ちこぼれた人間によって形作られてきたというのが歴史的な真実である。ジャ・ジャンクーが映画学校でどういう学生だったのかは知らないが、決して優等生ではなかったであろうことは、このふてぶてしい面構えをもった素晴らしい作品を見れば分かる。ラスト近くで三度繰り返される歩道橋のシーン、あれに感応するかしないかで人類は二分される。